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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

ナイチンゲールよ、夢を見させて

 『雪の女王』(1844)は、アンデルセンが三十代後半の頃の作品で、彼の童話の中では一番の長篇にあたる。執筆時の作家の年齢をゆうに越えた今、久し振りに読み返してみて痛切に感じたのは、ここに描かれていたのは克服しがたい失恋経験だったのではないかということだ。それも絶対だと確信していたのに永遠に失ってしまった唯一無二という類いの。

 緊急事態宣言明けの図書館で、アンデルセンに関する本をいくつか借りて読んだ。こういう文章にするつもりが全くなかったので、どの本にどう書いてあったかきちんと挙げられないのだが、市立図書館にたまたま置いてあった数冊から自分が得たアンデルセン像というのは、彼はただのメルヘンおじさんではなくて、奨学金で学び王室からも敬愛される稀有な才能を持った作家だったという事と、恋愛面の評価にはかなりバラツキがある人だった、という事だ。

 特に恋愛に関しては、同一人物の事だとは思えない程、好き勝手なことが書かれている印象だ。生涯結婚しなかった彼の事を、容姿を気にしてまともに女性と付き合えなかったのだと評している本もあれば、結構奔放に遊んでいたことを暴いている本もある。「彼は女性に失恋しているのだから同性愛者ではない」とわざわざ断っている文章もあれば、「生涯を通じて性的に曖昧だった」と表現している評伝もあった。この「性的には曖昧」というのが、研究が進んだ現代のアンデルセン像には一番近いのかも知れない。

 


 

 

 角川文庫の山室静の解説(1976)では、当時の人気オペラ歌手で、スウェーデンナイチンゲールと称えられていたジェニー・リンドとの出会いと失恋が、彼の作品に大きな影響を与えたのだとある。別の伝記によれば、ジェニーはアンデルセンを慕ってはいたけれど、結局彼の求婚は断り続けた。彼女がアンデルセンの失われた唯一無二だったのだろうか。

 正直、「アンデルセンは支援者の息子に恋をしていたが、彼は別の女性と結婚してしまう。その失恋の痛みから『人魚姫』は書かれた」というネットの海で知った説の方が、『雪の女王』から自分が受けた印象には近い。ゲルダが「絶対にカイだ」と確信して会いに行ったのに別人だった王子と、彼にぴったりな王女のカップルからは、愛した男性の結婚で初めてどうしようもない現実を突きつけられた、終生夢見がちだった作家の絶望が滲んでいる気がしてならないのだ。

 むしろ『雪の女王』が書かれた時期には、アンデルセンはジェニーとの結婚に夢を見ていたのではないだろうか。自分はきっと彼女に恋をしている、自分は彼女を愛しているに違いない、というのが当時の彼を照らす希望だったように思える。どうしても消す事の出来なかった同性への恋の痛手を、彼女への愛を本物にする事で贖いたいという悲痛な祈りが『雪の女王』には込められているように感じられるのだ。

 『グレイテスト・ショーマン』(2017)には、後のアメリカ興業時代のジェニー・リンドが出てくる。この映画の彼女は「雪の女王」のモデルであることが意識されているのかも知れない。「本物の芸術」で興行師バーナムを魅了するが、彼の心が手に入らないと分かると(社会的な)死のキスを贈る恐ろしい女性として描かれていた。しかし実際の彼女は真面目で敬虔な性格で、普段は地味とさえいえる印象の人であったらしい。それが、ひとたび舞台に上がれば、どんな役でも類稀な美声で見事に歌いこなして聴衆を熱狂させる。ある種、北島マヤ的な才能を有したオペラ界のスーパースターだった。

 


 

 

 アンデルセンの恋愛スタイルは基本押して押して押しまくるものだったらしいが、ジェニーは彼の熱意を「お兄さま」と呼んでかわし続けた。やがて彼女は既婚者のメンデルスゾーンと惹かれ合うようになる。当時のサロン文化を通じて、アンデルセンメンデルスゾーンとは旧知の間柄だった。ジェニーの心が彼にあることに気付いて、さすがのアンデルセンも失恋を自覚する。

 ジェニー・リンドが舞台の上で開花する憑依型の天才であったとするならば、メンデルスゾーンは常に周囲の期待に応え続けた全方位型の天才であったらしい。裕福なユダヤ系銀行家の家に美しく生まれた彼は、幼い頃から一流の教育を叩き込まれ、どの分野でも大変優秀で神童ともてはやされた。その全てに恵まれたように見える彼が、人生をかける仕事として選んだのが音楽だった。天性の歌姫と何でも持っている王子様との間で、アンデルセンはただ滑稽な独り相撲をとっていただけだったのだろうか。

 メンデルスゾーン家は短命な一族だったらしく、フェリックス・メンデルスゾーンはジェニーとの出会いから数年後、わずか38歳の若さで急逝してしまう。才能をもてはやされながらユダヤ人として排斥される矛盾も抱え、ジェニーと知り合う以前から彼は疲弊しきっていて、亡くなったのは最愛の姉の急死から半年後のことだった。彼の命をなんとか灯していた魂の伴侶は、美貌の妻でも奇跡の歌姫でもなく、幼い頃から音楽の才能を分かち合いながらも自分は弟の裏方に徹していた姉のファニーだったということなのかも知れない。

 アンデルセンはその人生のどこかで「理想の自分像」と「理想の伴侶像」との境界が曖昧になってしまうような経験をしていた。混乱した理想を抱えた彼が、その両方を投影することが出来たのが、どんな役柄でも自分のものにできる才能を持ったジェニー・リンドだったのではないだろうか。『雪の女王』にはジェニーへの愛を本物にしたいと願うアンデルセンの切なる願いが込められていたように自分は感じる。そのジェニーは、アンデルセンが抱くもう一つの理想像だったかもしれないメンデルスゾーンと惹かれあったが、彼の魂の全てを手に入れることは叶わなかった。『雪の女王』が書かれた頃には、まだ彼らの奇妙な三角関係は形成されていなかったはずだが、アンデルセンの特異な才能は、彼の願いとは裏腹な数奇な運命の横顔みたいなものを、物語の中で既に捉えていたようにも思える。

 

 

とある魔法戦争の記録

  かつて、うら若い魔法使い見習いが、虐げられて嘆く友を助けるための呪文を唱えた。しかし、その呪文はやがて世界を破滅させるかもしれない禁断の言葉でもあった。そのことに気づいた魔法使いの師匠は、世界を守るために弟子が生まれる前まで時間を巻き戻すことにする。しかし何度繰り返しても、弟子は世界のどこかに生まれ直しては禁じられた呪文を唱えてしまう。その度に師匠は時を巻き戻す。彼らは今も無限の時をリープし続けている。いつか禁呪を唱える必要のない世界で共に目を覚ますことを夢見ながら。

 

魔法使いの弟子

魔法使いの弟子

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 繰り返しになってしまうが、自分の秘密を隠すことを止めたエルサのキャラクターは、特にLGBTコミュニティからは、カミングアウトの象徴として共感を持って受け取られた。そして『アナ雪』の続編の制作が発表されると、エルサの同性の恋人を登場させて欲しいという話題が盛り上がる。17歳のイザベルが提案した#GiveElsaAGirlfriend(エルサにガールフレンドを)というハッシュタグは一晩でTwitterのトレンドに躍り出た。どうせなら(!)人種も違ったカップルがいいと、黒髪のプリンセスのイラストも次々投稿された。

 しかし、反響の大きさとディズニー作品の影響力を危惧したキリスト教系保守サイトは、対抗して#CharmingPrinceForElsa(エルサに魅力的な王子を)というタグで、伝統的な王子様キャラクターを復活させるキャンペーンをはじめる。2016年5月の事である。

 常にマイノリティの権利拡大を願う左派にとっては、今更エルサが伝統的な王子と恋に落ちるなどという筋書きは、大変な後退であり死にも等しい。彼女は自由の象徴として、ガールフレンドを作るべきだ。しかし伝統的な価値観を守ることを使命とする右派にとっては、女王が同性の伴侶を得ることは、世界の破滅を意味するような重大な危機である。なんとしても世界の崩壊を食い止める魅力的な王子を蘇らせなくてはならない。かくして鳥のさえずりを模したSNS上ではハッシュタグという呪文が飛び交う魔法戦争が勃発し、エルサとその未知の恋人の性的指向は、勝手に「戦場」として踏み荒らされることとなった。そこでは黒髪のプリンセスとチャーミング王子は、同時に存在する事が許されない運命の仇同士である。

 約一ヶ月間の戦いの末、保守系サイト『CITIZEN GO』は「ディズニーはレズビアンの女王とガールフレンドを断念」と一方的に勝利宣言をする。本家スペイン語のサイトではエルサの頭上にVICTORIAと書かれた赤い三角形まで掲げられた。保守派の呪文が打ち勝って時代は巻戻り、幻の黒髪のプリンセスは露と消え、代わりにプリンス・チャーミングが墓場から黄泉帰った、のだろうか。

 

Viva la Vida

Viva la Vida

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 しかしまだ黒髪のプリンセスとプリンス・チャーミングが手を携えて共に生きる希望はあった。左右に分かれた両陣営が互いに憎しみを手放し、愛で世界を塗り替えるのだ。#CharmingPrinceForElsaという呪いの言葉は「エルサ役としての魅力的な王子」とも取れる。エルサの役を王子が演じれば、仇同士の二人が結ばれる世界もあり得るのではないか。何処からか現れたフェアリーゴッドマザーは、呪文はそのままに魔法をかけ直し、魅力的な王子ことサザンアイルズのハンス王子がエルサとして蘇ることとなった。

 今度のエルサは赤い三角帽を戴いた「民衆を率いる自由の女神」でありながら、勝利の女神ヴィクトリアの名まで授かっていた。そうして、めでたき名を持つヴィクトル・ニキフォロフが「ゆーとぴあかつき」の湯けむりから立ち現れる。彼は果たしてエルサなのかハンスなのか。それともただの鏡なのか。そして黒髪のプリンセスはどこへ行ってしまったのか。

 「エルサ役としての魅力的な王子にエルサ役としての魅力的な王子を」「エルサ役としての魅力的な王子にガールフレンドを」。いつの間にか両陣営の主張は完全に裏返り、エルサ役の魅力的な王子はレリゴーと唱え、シチズンはゴーする。自由を求めて、約束の地、スペインはバルセロナへ。

 


 

 

湾曲した鏡

 なぜ、よりによってハンス王子なのか。一度気付いてしまうとそうとしか思えなくなる程、ヴィクトル・ニキフォロフの言動は『アナ雪』のハンスと被って見える。好きな食べ物を知りたがり、扉を開けさせたがり、決め台詞は「そういうの大好きだよ!」だ。自分たちは似ていて、問題の解決策はキスだと思っている。そう思って見れば、彼の『離れずにそばにいて』の衣装は、ハンスの気取った服に似せているようにも思える。

 あまり中の人の言うことを鵜呑みにしすぎない方がいいのかなと思う時もあるが、監督ジェニファー・リーのインタビューによれば、ハンスとクリストフとアナの名は、原作者のハンス・クリスチャン・アンデルセンからそれぞれ取ったそうだ。そして、そんな事まで明かしてしまうんだと思ったけれど、ハンス王子は原作に出てくる「悪魔の鏡」なのだとも語っている。劇場で初めて『アナと雪の女王』を観たとき、途中までハンス王子が悪役だとは信じられなかった。前半の彼は本当に理想的なアナの伴侶候補にしか見えないのだ。彼はアナが都合よく悪魔の鏡に見出した鏡像のような男だったということだろうか。

 

とびら開けて

とびら開けて

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 アンデルセン雪の女王』(1844)の中での「悪魔の鏡」とは、「悪いトロールの中でも一番悪いやつ、悪魔」が作った鏡であり、そこに映るものは何でも拡大されたり歪んだり上下が逆になったりして見えてしまう。悪魔とトロールたちは調子に乗って、この鏡に神様と天使たちの姿を映してみようとするが、鏡は地上に落ちて砕け散ってしまった。そして、その欠片は世界中に散らばって漂い続けている。

 人によっては、小さい鏡のかけらを、心臓にうけてしまった人さえありました。そうなると、本当に恐ろしいことでした。その人の心が、氷のかたまりのようになってしまうのです。また、鏡のかけらの中には、大きいために、窓ガラスに使われたのもありました。けれども、このガラス窓から友だちを見たりすると、とんだことになりました。それから、眼鏡になったかけらもありました。

アンデルセン雪の女王山室静

 物語の発端は、この小さな欠片がカイの目から入り、心臓に刺さってしまったことだ。カイは意地悪で理屈っぽい少年となり、仲良しだった幼馴染のゲルダを邪険に扱うようになる。そして雪の女王に魅入られて氷の城へ連れ去られてしまう。

 しかし本当の変化は、鏡の欠片が目に入る前から彼の身に起こっている。ある冬の晩、カイはガラス越しに見た雪のひとひらが、氷の体を持つ美しい女の姿になって手招きするのを目撃する。悪魔の鏡はカイの家の窓にも使われていたらしい。その時は驚いて逃げ出したまま春になったものの、次の冬、彼はレンズ越しの雪の結晶の完璧な美しさに見とれて、再び雪の女王を呼び出してしまう。雪の女王とは、思春期の少年の心が生んだ、この世には存在しえない完全無欠な女の姿をした氷の魔物だったのかも知れない。彼女は温かな血の通う不完全な現実の少女とは対極の存在だ。

 


 

 

 アンデルセンの『雪の女王』が、少年に取り憑いた「完全な女なるもの」の姿をした魔物だったなら、『アナ雪』のエルサは、完璧ではない現実の女の子アナが抱いた「完璧な理想の自分」の具現化だったのかも知れない。氷の魔女エルサとは、プリンセスとして完璧でなければいけないというプレッシャーから逃れるために、幼いアナが生み出してしまった幻の姉だったのではないだろうか。この物語の本当の氷の魔女は、もしかしてアナの方なのだ。

 アナはいつか真実と向き合って幻の姉と人格を統合しなくてはならなかったのに、両親の船が沈んだ事によってその機会を失う。そして自分がエルサを作り出したことを忘れたまま、彼女に魔力と責任を押し付けて戴冠させてしまう。「もう完璧な自分を演じきれない」というエルサの苦悩は、実はアナの苦しみでもある。

 エルサという完璧な女王を作り上げて自分で自分を閉じ込めているアナは、今度は自分を孤独から救い出してくれそうな理想的な婚約者、ハンスを生み出してしまう。ハンス王子とは、それ自体では愛情も悪意も持ち合わせない、ただの鏡でしかない。アナが目を輝かせればハンスの瞳も輝き、孤独を打ち明ければ、全く同じだと共感してくれる。ハンスが「愛はない」とアナを見捨ててエルサを手に掛け、アレンデールを乗っ取ろうとするのは、自分を愛せないまま雪の幻想と戯れ続けるアナ自身の姿が投影されているだけなのかも知れない。孤独なプリンセスは、まずありのままの自分を愛してエルサと和解しなければならなかった。「完璧ではないけれどいい男」であるクリストフと出会うのは、その後であるべきなのだ。

 

愛さえあれば

愛さえあれば

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 女王エルサと王子ハンスはどちらもアナのコンプレックスが生み出した鏡像だから、『ユーリ』の中のエルサポジションにいるヴィクトルはハンスとも被って見えるのだ、という解釈は出来るかも知れない。勝生勇利の憧れを映し出す鏡であるヴィクトルには、ある時には完全無欠な氷の帝王が映り、ある時にはキラキラとした理想の王子様が映る。だとしたら結局、勇利はただ一人でウヌボレ鏡をのぞき込んでいただけなのだろうか。『ユーリ』はそんな夢オチみたいな物語なのだろうか。

 しんしんと凍てついていくアレンデールで、瀕死のアナはクリストフの胸に飛び込んで救われることよりも、剣を振り上げるハンスから身を挺してエルサを守ることを選ぶ。とうとう全身が凍りついてしまったアナにエルサが縋りつき、その瞬間、アナの胸から氷は溶けていく。「愛よ!」とエルサが悟ると、アレンデールはみるみる春の光景を取り戻し、アナはエルサに「(あなたは)出来るって言ったでしょ」と得意げに告げる。

 彼女たちが氷を溶かした愛とは、一体どんな愛だったのだろう。どんな愛でもいいではないか、自己犠牲の愛でも同性愛でも、究極的にはアナが自分を認めるための愛が成就したのだから。そうも思うけれど、ヴィクトルがまるでハンスのようである理由の一つには、ひょっとしてこの「愛」をめぐる問題、というより戦いが関わっている。