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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

女王と王女の国

 『アナと雪の女王』のハンス王子とは結局何者だったのだろうと考えていたら、アンデルセンのとんでもない深みにはまることになってしまった。『アナ雪』の監督によれば、ハンス王子とは真実を歪めて見せる悪魔の鏡であり、その名は原作者アンデルセンファーストネームから取られているのだという。アンデルセンの見栄っ張りだった部分を象徴したキャラクターでもあるのかも知れない。彼はまたサザンアイルズという王国の13番目の王子様で、「上の兄2人は2年間も僕のことを見えないふりをしていた」と複雑な家庭環境をアナにこぼしてもいる。

 原作の『雪の女王』には、ずばりハンスのような登場人物は出てこないが、「王子と王女」というタイトルの章がある。自分の記憶では王子と「王女」だったのだが、手元にある山室静訳では王子と「女王」と訳されていて、しばし悩んでしまった。彼女が女王なのか王女なのかで、受ける印象は微妙に違ってくる気がするからだ。

 できる範囲で調べてみれば、青空文庫に上げられている翻訳や岩波文庫では「王女」と訳されている。ネットに公開されている英訳でもprincess、そして原文がPrindsesseなので「王女」でいい気がするが、なぜアンデルセンの研究書も出している山室静は、わざわざ「女王」と訳したのか。単に底本が異なっている可能性もあるが、もしかして、その王女は「ついこの間、玉座におつきになった」と書かれているから「女王」としたのかなとも思う。確かに玉座に就いているなら、もう王女ではなく女王であるはずだ。加えて『雪の女王』はゲルダ対「女王」の物語であるという観点から「王女」ではなく「女王」とした可能性もあるのだろうか。

 訳者の真意はよく分からないが、個人的にはやはり彼女は女王ではなく王女でいいのだと思う。多分ゲルダがさまよっているのは、通常の約束事や物理法則は通用しない世界だ。「王女さまは大変利口な方」で「世界中の新聞をみんな読んでしまって、それをまたきれいさっぱり忘れてしまう」ほどだという。「王子と王女」というのは、そんな彼女がプリンセスのまま玉座について、それから「そうだ、結婚しよう」と思いつくという、色々とあべこべな国の出来事だったのではないだろうか。

 「ついこのあいだ、王女様は、玉座におつきになったんだけれど、ただそれだけじゃ、ちっとも面白くないんだってね。みんなが言ってるんですよ。そこで、王女様は、ふと、こんな歌を口ずさみました。その歌というのは『どうして、わたしは結婚してはいけないの』といったようなものでした。『そうよ、この歌のとおりだわ』と、王女様は言って、結婚なさろうと思ったんです。」

アンデルセン雪の女王』大畑末吉訳

 ふと口ずさまれた「『どうして私は結婚してはいけないの』といったような歌」は、あべこべな国の王女様の心には「いいえ、私は結婚すべきである」という反語表現のように響く。王女様は結婚しようと思い立ち、おつきの女官たちも、口々に「自分たちもそれがいいと思っていた」と賛同し出す。まるで何かのオペラのような展開だ。国中に婿探しのお触れが出されて志願者たちが詰めかけるが、王女の気に入るように振る舞える者はいない。3日目に現れた「結婚しに来たのではなく、ただ賢い王女に会ってみたかった」という長い髪の男の子だけが彼女の心を射止める。あべこべな国だから、結婚を目的にやってきた者たちは、結婚したい王女様の心には響かなかったのかも知れない。

 


 

 

 この男の子がカイかも知れないとカラスから聞かされたゲルダは、二人が結婚したのか知りたがるが、カラスの返答は「僕だって、カラスでなかったら、王女様と結婚しますよ」というちょっと的を得ないものだ。ゲルダはカラスの手引きで眠る二人の寝室に忍び込み、男の子の顔をランプで照らし出す。彼は日に焼けた首筋だけはカイにそっくりだったが、顔は全くの別人だった。ここで初めて男の子は「王子」だと書かれている。失望して泣きじゃくるゲルダに、王子と王女はとても同情して、いつまでもお城で暮らしていいとさえ言ってくれるのだが、ゲルダは豪華な馬車に乗せてもらって旅を続けることにする。

 この王子は最後までとても親切で、手のひら返しをするハンス王子とは似ても似つかないのだが、「絶対にこの人だ」と確信していたのに間違えてしまった人だったという点では共通している。どんなにいい人であろうと極悪人であろうと、間違った相手であった絶望に変わりはない。この章のゲルダには、彼女の孤独に共感したカラスがずっと寄り添っている。カラスにはいつの間にかお城に許嫁がいることになっていて、章の終わりには結婚してお城で暮らす身分となっている。このあべこべなプリンスとプリンセスの物語は、本当は自分自身が孤独なカラスが、ゲルダに投影して見せた夢物語だったのではないだろうか。そして孤独なカラスの正体は、ひょっとしてゲルダが探していたその人自身だったのではないかとも思う。ただ、この奇妙なオペラのような国では、二人は共鳴しながらもすれ違うしかなかったのだ。

 この原作の「王子と王女」の国に対して、『アナ雪』のアレンデールは「女王と王女」の国として描かれているのかも知れない。細部まで生き生きと息を吹き込まれているが、やはり通常の常識とは異なる国だと考えた方が良さそうだ。孤独な王女さまは、閉ざされたドアに向かって「Do you wanna build a snowman?」と歌い続けた。彼女は自分に代わる理想の女王を作り出すことで、自身は王女のまま王座につく。そして理想の王子さまをお城に迎えようとするけれど、女王は重圧に耐えきれずに逃げ出してしまう。

 アナはなんとしても理想の自分であるエルサを連れ戻さなくてはならない。そんなアナにいつの間にか寄り添って、ゲルダにとってのカラスのように、終始ピントのずれたアドバイスをし続けていたのは雪だるまのオラフだ。アナが本当に探し求めていた人は、孤独な彼女が作り続けた雪だるま、抱きしめたら溶けてしまうオラフの中に、最初からずっと存在していたのかも知れない。

 ハンス王子の正体について考えていたつもりが、なかなかその本体に行き当たらないが、彼もきっと、アナが作った雪だるまの中に巻き込まれていたうちの一人であるのだろう。

 

雪だるまつくろう

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ナイチンゲールよ、夢を見させて

 『雪の女王』(1844)は、アンデルセンが三十代後半の頃の作品で、彼の童話の中では一番の長篇にあたる。執筆時の作家の年齢をゆうに越えた今、久し振りに読み返してみて痛切に感じたのは、ここに描かれていたのは克服しがたい失恋経験だったのではないかということだ。それも絶対だと確信していたのに永遠に失ってしまった唯一無二という類いの。

 緊急事態宣言明けの図書館で、アンデルセンに関する本をいくつか借りて読んだ。こういう文章にするつもりが全くなかったので、どの本にどう書いてあったかきちんと挙げられないのだが、市立図書館にたまたま置いてあった数冊から自分が得たアンデルセン像というのは、彼はただのメルヘンおじさんではなくて、奨学金で学び王室からも敬愛される稀有な才能を持った作家だったという事と、恋愛面の評価にはかなりバラツキがある人だった、という事だ。

 特に恋愛に関しては、同一人物の事だとは思えない程、好き勝手なことが書かれている印象だ。生涯結婚しなかった彼の事を、容姿を気にしてまともに女性と付き合えなかったのだと評している本もあれば、結構奔放に遊んでいたことを暴いている本もある。「彼は女性に失恋しているのだから同性愛者ではない」とわざわざ断っている文章もあれば、「生涯を通じて性的に曖昧だった」と表現している評伝もあった。この「性的には曖昧」というのが、研究が進んだ現代のアンデルセン像には一番近いのかも知れない。

 


 

 

 角川文庫の山室静の解説(1976)では、当時の人気オペラ歌手で、スウェーデンナイチンゲールと称えられていたジェニー・リンドとの出会いと失恋が、彼の作品に大きな影響を与えたのだとある。別の伝記によれば、ジェニーはアンデルセンを慕ってはいたけれど、結局彼の求婚は断り続けた。彼女がアンデルセンの失われた唯一無二だったのだろうか。

 正直、「アンデルセンは支援者の息子に恋をしていたが、彼は別の女性と結婚してしまう。その失恋の痛みから『人魚姫』は書かれた」というネットの海で知った説の方が、『雪の女王』から自分が受けた印象には近い。ゲルダが「絶対にカイだ」と確信して会いに行ったのに別人だった王子と、彼にぴったりな王女のカップルからは、愛した男性の結婚で初めてどうしようもない現実を突きつけられた、終生夢見がちだった作家の絶望が滲んでいる気がしてならないのだ。

 むしろ『雪の女王』が書かれた時期には、アンデルセンはジェニーとの結婚に夢を見ていたのではないだろうか。自分はきっと彼女に恋をしている、自分は彼女を愛しているに違いない、というのが当時の彼を照らす希望だったように思える。どうしても消す事の出来なかった同性への恋の痛手を、彼女への愛を本物にする事で贖いたいという悲痛な祈りが『雪の女王』には込められているように感じられるのだ。

 『グレイテスト・ショーマン』(2017)には、後のアメリカ興業時代のジェニー・リンドが出てくる。この映画の彼女は「雪の女王」のモデルであることが意識されているのかも知れない。「本物の芸術」で興行師バーナムを魅了するが、彼の心が手に入らないと分かると(社会的な)死のキスを贈る恐ろしい女性として描かれていた。しかし実際の彼女は真面目で敬虔な性格で、普段は地味とさえいえる印象の人であったらしい。それが、ひとたび舞台に上がれば、どんな役でも類稀な美声で見事に歌いこなして聴衆を熱狂させる。ある種、北島マヤ的な才能を有したオペラ界のスーパースターだった。

 


 

 

 アンデルセンの恋愛スタイルは基本押して押して押しまくるものだったらしいが、ジェニーは彼の熱意を「お兄さま」と呼んでかわし続けた。やがて彼女は既婚者のメンデルスゾーンと惹かれ合うようになる。当時のサロン文化を通じて、アンデルセンメンデルスゾーンとは旧知の間柄だった。ジェニーの心が彼にあることに気付いて、さすがのアンデルセンも失恋を自覚する。

 ジェニー・リンドが舞台の上で開花する憑依型の天才であったとするならば、メンデルスゾーンは常に周囲の期待に応え続けた全方位型の天才であったらしい。裕福なユダヤ系銀行家の家に美しく生まれた彼は、幼い頃から一流の教育を叩き込まれ、どの分野でも大変優秀で神童ともてはやされた。その全てに恵まれたように見える彼が、人生をかける仕事として選んだのが音楽だった。天性の歌姫と何でも持っている王子様との間で、アンデルセンはただ滑稽な独り相撲をとっていただけだったのだろうか。

 メンデルスゾーン家は短命な一族だったらしく、フェリックス・メンデルスゾーンはジェニーとの出会いから数年後、わずか38歳の若さで急逝してしまう。才能をもてはやされながらユダヤ人として排斥される矛盾も抱え、ジェニーと知り合う以前から彼は疲弊しきっていて、亡くなったのは最愛の姉の急死から半年後のことだった。彼の命をなんとか灯していた魂の伴侶は、美貌の妻でも奇跡の歌姫でもなく、幼い頃から音楽の才能を分かち合いながらも自分は弟の裏方に徹していた姉のファニーだったということなのかも知れない。

 アンデルセンはその人生のどこかで「理想の自分像」と「理想の伴侶像」との境界が曖昧になってしまうような経験をしていた。混乱した理想を抱えた彼が、その両方を投影することが出来たのが、どんな役柄でも自分のものにできる才能を持ったジェニー・リンドだったのではないだろうか。『雪の女王』にはジェニーへの愛を本物にしたいと願うアンデルセンの切なる願いが込められていたように自分は感じる。そのジェニーは、アンデルセンが抱くもう一つの理想像だったかもしれないメンデルスゾーンと惹かれあったが、彼の魂の全てを手に入れることは叶わなかった。『雪の女王』が書かれた頃には、まだ彼らの奇妙な三角関係は形成されていなかったはずだが、アンデルセンの特異な才能は、彼の願いとは裏腹な数奇な運命の横顔みたいなものを、物語の中で既に捉えていたようにも思える。

 

 

とある魔法戦争の記録

  かつて、うら若い魔法使い見習いが、虐げられて嘆く友を助けるための呪文を唱えた。しかし、その呪文はやがて世界を破滅させるかもしれない禁断の言葉でもあった。そのことに気づいた魔法使いの師匠は、世界を守るために弟子が生まれる前まで時間を巻き戻すことにする。しかし何度繰り返しても、弟子は世界のどこかに生まれ直しては禁じられた呪文を唱えてしまう。その度に師匠は時を巻き戻す。彼らは今も無限の時をリープし続けている。いつか禁呪を唱える必要のない世界で共に目を覚ますことを夢見ながら。

 

魔法使いの弟子

魔法使いの弟子

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 繰り返しになってしまうが、自分の秘密を隠すことを止めたエルサのキャラクターは、特にLGBTコミュニティからは、カミングアウトの象徴として共感を持って受け取られた。そして『アナ雪』の続編の制作が発表されると、エルサの同性の恋人を登場させて欲しいという話題が盛り上がる。17歳のイザベルが提案した#GiveElsaAGirlfriend(エルサにガールフレンドを)というハッシュタグは一晩でTwitterのトレンドに躍り出た。どうせなら(!)人種も違ったカップルがいいと、黒髪のプリンセスのイラストも次々投稿された。

 しかし、反響の大きさとディズニー作品の影響力を危惧したキリスト教系保守サイトは、対抗して#CharmingPrinceForElsa(エルサに魅力的な王子を)というタグで、伝統的な王子様キャラクターを復活させるキャンペーンをはじめる。2016年5月の事である。

 常にマイノリティの権利拡大を願う左派にとっては、今更エルサが伝統的な王子と恋に落ちるなどという筋書きは、大変な後退であり死にも等しい。彼女は自由の象徴として、ガールフレンドを作るべきだ。しかし伝統的な価値観を守ることを使命とする右派にとっては、女王が同性の伴侶を得ることは、世界の破滅を意味するような重大な危機である。なんとしても世界の崩壊を食い止める魅力的な王子を蘇らせなくてはならない。かくして鳥のさえずりを模したSNS上ではハッシュタグという呪文が飛び交う魔法戦争が勃発し、エルサとその未知の恋人の性的指向は、勝手に「戦場」として踏み荒らされることとなった。そこでは黒髪のプリンセスとチャーミング王子は、同時に存在する事が許されない運命の仇同士である。

 約一ヶ月間の戦いの末、保守系サイト『CITIZEN GO』は「ディズニーはレズビアンの女王とガールフレンドを断念」と一方的に勝利宣言をする。本家スペイン語のサイトではエルサの頭上にVICTORIAと書かれた赤い三角形まで掲げられた。保守派の呪文が打ち勝って時代は巻戻り、幻の黒髪のプリンセスは露と消え、代わりにプリンス・チャーミングが墓場から黄泉帰った、のだろうか。

 

Viva la Vida

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 しかしまだ黒髪のプリンセスとプリンス・チャーミングが手を携えて共に生きる希望はあった。左右に分かれた両陣営が互いに憎しみを手放し、愛で世界を塗り替えるのだ。#CharmingPrinceForElsaという呪いの言葉は「エルサ役としての魅力的な王子」とも取れる。エルサの役を王子が演じれば、仇同士の二人が結ばれる世界もあり得るのではないか。何処からか現れたフェアリーゴッドマザーは、呪文はそのままに魔法をかけ直し、魅力的な王子ことサザンアイルズのハンス王子がエルサとして蘇ることとなった。

 今度のエルサは赤い三角帽を戴いた「民衆を率いる自由の女神」でありながら、勝利の女神ヴィクトリアの名まで授かっていた。そうして、めでたき名を持つヴィクトル・ニキフォロフが「ゆーとぴあかつき」の湯けむりから立ち現れる。彼は果たしてエルサなのかハンスなのか。それともただの鏡なのか。そして黒髪のプリンセスはどこへ行ってしまったのか。

 「エルサ役としての魅力的な王子にエルサ役としての魅力的な王子を」「エルサ役としての魅力的な王子にガールフレンドを」。いつの間にか両陣営の主張は完全に裏返り、エルサ役の魅力的な王子はレリゴーと唱え、シチズンはゴーする。自由を求めて、約束の地、スペインはバルセロナへ。