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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

牛の要求と『メッセージ』(2016)

 『メッセージ』という邦題はありふれていて、タイトルをいつか失念してしまいそうだと公開当時に危惧した覚えがある。原題は『Arrival』、テッド・チャンの短編小説『あなたの人生の物語』の映画化だ。地球上のあちこちに同時発生的に謎の物体が飛来する。その内部では、スクリーンのような壁越しにエイリアンと対面することが出来る。彼らの意図を探るために、未知の言語を解読することになった言語学者エイミー・アダムスが演じたSF作品である。キービジュアルの宇宙船らしきものが米菓「ばかうけ」の形状に似ているということが、当時ちょっと話題になったと思う。映画館で観てから、気になって原作を読んだ。機会があったらもう一度観たいと思いながら忘れかけていたところ、Netflixのオススメにあのばかうけのシルエットが出現して、タイトルを忘れる前にまためぐり合うことが出来た。

 

 

 同時多発的に各国に謎の宇宙船が出現して騒然となっている世界で、言語学者のルイーズの元に軍が協力を求めてやってくる。ルイーズはエイリアンとの直接の対話を求めるが、フォレスト・ウィテカー演じるウェバー大佐は彼女を連れていくことは出来ないと別の学者をあたろうとする。ここでルイーズは他の候補者に「サンスクリット語での『戦争』とその語源」を聞いてみるようにと謎かけをする。果たして大佐は深夜にルイーズを迎えに戻って来る。このやりとりは映画オリジナルで原作にはない。「『ギャヴィスティ』、語源は『討論』だそうだ。違うのか」「『牛がもっと欲しい』ね」という端的な会話だけで、ルイーズは軍用ヘリに乗り込むことを許され、共同研究者となる理論物理学者のイアンと引き合わされる。この大佐との謎めいた駆け引きがずっと引っかかっていた。

 大佐はなぜ思い直して未知との遭遇の場にルイーズを連れていくことにしたのか。サンスクリットを全然知らないまま想像するに、『戦争』という抽象度が高い単語の語源に『討論』という同じく抽象的な単語を持ってくるというのは、辞書的な記述にはままあることだけれど、不毛なトートロジーに陥りかねず、この任務にあたる者の説明としては不十分である、ということを指摘したかった、のかも知れない。こじつけが過ぎるとは思うけれど。ルイーズは以前も大佐の軍事作戦に協力したことがあるらしい。彼女はサンスクリットの『戦争』について、ライバルが述べそうなことが分かっていた。そして大佐がその説明に違和感を覚える知性の持ち主だということも知っていた。さらに言えば『戦争』を生業とする大佐には、『戦争』の起源について直観的な理解が備わっているはずであり、彼を納得させられるのは自分の解答の方だ、ということまで見越した発言だったのかも知れない。

 原作の『あなたの人生の物語』は、ある言語学者が未知のエイリアンの言葉を習得していく過程を描いたSF短編、であるはずなのだが、エイリアンとのセッションと同じ比重で結婚や出産といった個人的な人生のドラマが綴られる。彼女が「あなた」と呼びかけるのは、どうやら大切に育てている一人娘に対してである。出産の喜び、瞬く間の成長、父親との離婚、再婚、賢く美しく成長して独り立ちしていく姿、そして不慮の事故による死別、といった最愛の娘の一生を「ヘクタポッド」と名付けたエイリアンの特殊な言語を学んでいく中で彼女は知覚するようになる。実際には彼女はまだ妊娠も結婚もしておらず、時間の概念がない(ないわけではなく時制にとらわれない非線形の時間ということなのだが)ヘクタポッドの言語を学習することで、これから起こることが見えるようになっている、というのがこの物語最大のネタバレで、未来が全て分かっていても、娘の父親となる男性からの誘いに微笑んでイエスと答えるという結末が不思議な余韻をもたらす。

 知覚が変化して、これから起こることが全て分かってしまったら、そのあとの人生を正気を保って生きていくことが出来るだろうか。絶望して命を絶ってしまう人の物語や、愛するものを救うために積極的に未来を変えようとする物語、幸いにも全てを忘却して平穏な日常を取り戻す物語、などが思い浮かぶけれど、『あなたの人生の物語』のヒロインは、ただ静かな喜びを持って全てを受け入れる。過去も未来も現在も溶け合った知覚というのは、存外そういった境地であるのかもしれない。

 


 

 

 実は原作に巨大な「ばかうけ」は出てこない。もう少しスケールの小さい「姿見」(ルッキンググラス)という通信装置が各地に多数出現し、世界中の言語学者と物理学者のペアが軍の介在の下、「姿見」を覗き込んでヘクタポッドと対峙するという仕掛けである。そう、未来の娘の父親になる男性とは、一緒に「姿見」を見つめる任を負った物理学者だ。軍はエイリアンとのセッションから軍事的に有用な新技術を得ることを期待しているが、結局既に地上にあるもの以外、何一つ新しい知見はもたらされなかったことがヘクタポッド達が去った後に判明するというオチがつく。全世界に112個現れたというその通信装置は、映画の中では12隻の巨大な宇宙船として現れる。科学者達は仰々しいチームを組んでその内部に侵入し、ヘクタポッドとのセッションに臨む。原作が「姿見」をのぞき込む女と男の物語であるならば、映画はより巨大なスクリーンを用いて男女の背後で「もっと牛が欲しい」と要求するものを映しだそうと試みているのだ。

 当初、ヘクタポッド飛来の意図を解明するために世界は協力して情報を共有し合っているが、「武器を与える」というメッセージが解読された途端、各国が疑心暗鬼に陥って協力体制は崩壊寸前となる。ヘクタポッドのいう「武器」とは本当に「武器」なのか。そもそも「武器」と「道具」の区別が曖昧な言語もあるし、「武器を与える」ではなく「武器を与えて欲しい」かも知れない。ルイーズとイアンが懸命に軍事衝突以外の可能性を読み取ろうとする傍らで、作戦を監視するCIAのエージェントは戦争へのシナリオばかりを口にし始める。

 イアンはヘクタポッドのメッセージは12分割されており、各国が協力して情報を共有することで完成するということを発見する。一方でルイーズはヘクタポッドの言語を習得していくうちに、自分の知覚の変化に気付き始める。彼女の中で、まだ起こっていない未来の記憶と現在とが重なり合って相互に干渉し始めるのだ。未来のルイーズは娘から「競争は起こるけれど最後は両者が得をする関係を表す言葉」を問われるが思い出すことが出来ない。「ウィンウィンより数学的な用語」だと言われて「お父さんに電話してみて」(物理学者の夫とは既に離婚しているのだ)と仕方なく答える。しかし、現在のイアンが「まず自国の情報を公開することで相手の情報も公開してもらう」「ノンゼロサムゲームだ」と提案した瞬間、未来の自分が「ノンゼロサムゲーム」という言葉を思い出す、ということを思い出す。

 イアンが口にする「ノンゼロサムゲーム」という用語は、原作では決して全てを解決する魔法のキーワードとして使われているわけではないと思うが、112個のルッキンググラスが12隻の宇宙船となって飛来し、ヘクタポッドの言語がやがては人類全体の意識を変革することになる世界ではそれなりの効力を持つかも知れない。覚醒したルイーズの行動と人類にもたらされる変化は、ここで文字にしても面白くないネタバレにしかならないだろうが、その変化のきっかけが、将来失うことになってしまう未来の娘からの問いと、添い遂げることはないと分かっている未来の夫の言葉が彼女の中で結びついた瞬間だった、というのは強い印象を残す。世界の変革の徴しというのは、ごく私的で儚い家族の記憶にこそ兆すものなのかも知れない。

 

Sapir- Whorf

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オン・ザ・ネイチャー・オブ・デイライト

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 そして冒頭の会話の謎に還る。現在と未来が相互に干渉し合うものであるならば、過去もまた未来からの影響を受け続けているのではないか。ルイーズはなぜ「サンスクリット語での『戦争』とその語源」と口にしたのか。「サンスクリット」には「完成された言語」という意味があるそうだ。古代インドの「完成された言語」においては「牛の要求」が「戦争」の語源であった。しかし参加者全員が勝者となるようなノンゼロサムゲームの世界では、「牛がもっと欲しい」と要求することは、もはや「戦争」を意味しなくなるだろう。 これから彼女が解き明かして完成させる全く新しい言語では、「牛の要求」は「戦争」の語源ではなくなる。自分は「議論」を超えた世界にたどり着ける。彼女のとっさの謎かけには、未来からのそんなメッセージが重ねられていたのかも知れない。そして大佐もきっとそれを正しく受け取ったのだろう。というのが、コロナ禍2年目になる酷暑の日の妄想だった。甲子園では同じユニホームの2校が戦い、パラリンピックは無観客開催の6日目、黒煙立ち上るカブールでは数百人以上の日本関係者が取り残されたままだと報道されている。