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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

真昼のプリニウスと氷上のシェヘラザード『 ICE ADOLESCENCE』特報によせて

 「それで、この計画全体というか、このシステムには何か名前は付いていないんですか?」と頼子は自分もだいぶこのプランを面白がっているなと思いながら、たずねた。

 「ぼくはもう決めています。このシステムに、あるいはこれを管理するコンピューターに、付けるべき名前は一つしかありません。つまりですね、ひたすら、かぎりなく、話が出てくる魔法の箱に名があるとしたら、ふさわしい名は一つしかない。すなわち『シェヘラザード』です」と門田は言って、いささか得意そうに二人の顔を見た。

池澤夏樹『真昼のプリニウス

 2020年の前半はひたすらNetflixを見続けていた。2019年末にはまだ対岸の火事のように扱われていたコロナ禍は、年が明けるともちろんあっという間にこの国にも上陸して、家族はそれぞれリモートワークやリモート授業に対応しなければならなくなった。自分自身の暮らしはそこまで大きく変わった訳ではないが、常に誰かと家にいる生活というのは想像以上にというか想像通りにというかストレスが大きい。どの都市の感染者が今日は何人、といったニュースも定期的に見ないわけにはいかないが、そればかりではメンタルを蝕む。何か内なる喜びを見つけないと危ないと感じて、取り敢えずは動画配信サービスにすがった。イヤホンをして携帯の画面を見つめれば擬似的にでも一人の時間を取り戻せることに随分と慰められた。

 海外ドラマの一気見から始まって、気になりながら観ていなかったドラマや映画を、この機会に浴びるように摂取した。しかし数ヶ月後、とうとう観たいと思える動画が底をついた。オススメ作品は無限に表示されるのだが、どれも同じに見えるようになってしまって、どうにも食指が伸びなくなったのだ。現実逃避の手段を失って再び精神衛生の危機である。その時にぼんやりと思ったのは、次々とおすすめ動画が出てくる動画配信サービスというのは、昔読んだ小説に出てきた「シェヘラザード」みたいだな、ということだ。あの無限にお話が出てくる魔法のシステムは、結局どうなったんだっけ。

 『真昼のプリニウス』が発表されたのはバブルの最中の1989年で、自分が読んだのはもう少し後の時期だったけれど、当時はインターネットも携帯電話もまだ一般的ではなかった。そこで語られていた「シェヘラザード」とは固定電話を想定したサービスで、気軽に聞ける短い物語を無数に吹き込んでおいて、そのダイヤルに掛けるとランダムにどれかと繋がるというシステムだ。今からすれば随分素朴で、そういった偶然性を楽しむような余興は今日ネット上にありふれている。ただ、門田(もんでん)という広告マンが語る「シェヘラザード」が今でも興味深く思えるのは、それだけではないどこか悪魔的な魅力がそこに込められていたからだ。

 門田によれば、その「シェヘラザード」が提供する物語群には一定の傾向が無い方がいい。神話のリライトからささやかな歴史のトリビア、そしてエビの養殖の実際、みたいな話までをごちゃごちゃに混ぜる。

「カテゴリーに分けられる前の、あらゆる物が渾然とある状態、学者たちによって細分される前のトータルな状態の世界を、その雑然たる印象のままに、隙間から少しだけ見せる」

「つまり・・・」と言って頼子は考える、「百科事典の原理を裏返すわけ?」

 「シェヘラザード」に電話をかける者は、無作為にバラバラにされた世界のかけらの一つとつかの間繋がる。その行為を面白いと感じて実際にダイヤルする人間がどれだけいるかが、このアイデアがビジネスとして成り立つかどうかの分かれ目となる。門田自身はいけると踏んでいて、お話の提供依頼とリサーチを兼ねて、地質学者の頼子とその弟の卓馬に「シェヘラザード」の構想を披露する。外科医をしている卓馬には、どうもこのシステムはピンときていない。「何で普通の人間が(無意味な情報を聞くために)電話をするんだ?」と尋ねる彼に「上手く説明は出来ないが、トランキライザーのようなものだ」と門田は答える。「少なくとも自分はかけると思うから他の人の意見を聞きたい」。仕事がひと段落した夜などに、ふと自分もダイヤルするかもしれない、と頼子は思う。

 無意味な話を聞くために「普通の人が電話する」魔力を生むのは、そこに吹き込まれる物語の数だ。「百では全然つまらない。千あるとちょっと面白くなる」。確かに五十から百も気の利いた小話を集めれば、ちょっとした気晴らしを提供するシステムとしては稼働できそうだが、それでは「シェヘラザード」の魅力は生じないのだろう。誰かがたまたま戯れで引き当てた無意味な物語の背後に、語られなかった千の物語が存在していること。その無駄に思える部分が「シェヘラザード」に妖しげな命を吹き込む。語られなかった千の物語の総体のようなものを想像するかどうか、そこに暴君を慰めて尽きることなくお話を語ってくれるアラビアンナイトのお姫さまの面影を見出すかどうかが、門田のプランに興味を持つ人とそうでない人との違いなのだろう。

 日々メスを握って生身の人間を切り開く卓馬には、それは無意味な情報の集積にしか思えないが、人間のスケールを超えた地殻の内側を考えることが専門の頼子には、魅力的な「何か」の横顔がおぼろげに浮かぶ。そしてバブル期の広告業界に棲息する門田には、「シェヘラザード」は自分以外の人間も必ずや魅了するはずの美女に見えていて、彼女を育てるプランに取り憑かれている。ただ、物語のサンプルを読んで「門田の好みが反映されすぎている」と頼子が感じるように、門田は「世界そのものを提供する」と言いながらも、物語の切り取り方や整え方に、こっそり自分の編集を加えている。シェヘラザードの魅力は、門田の語り口のうまさによっているところが大きい。「シェヘラザード」は門田の夢の美女なのだ。他の誰かがコピーアンドペーストで乱雑に千の物語をかき集めてみたところで、そこに美しい面影が浮かぶとは限らないのだろう。


 


 

 時は移って2020年代の動画のサブスクリプションにどれだけの「物語」が収録されているのかというと、数え方にもよるが、Netflixアマゾンプライムといったメインどころで四千本前後といったところらしい。門田は、この数を多いと言うだろうか、少ないと言うだろうか。ステイホームのはじめ、サブスクの海に浮かんで見えたシェヘラザードは確かに慰めだったが、「こういうのがお好きでしょう?」と親切におすすめされ続けた結果、どうやら自分は夢の美女を見失いかけていた。

 作家・池澤夏樹なら「大切なのは世界と自分と美女とのバランスを取ることだ」と思慮深く忠告してくれそうだし、言われなくても彼のファンなら今すぐスマホの電源を落としてセスナ機の操縦マニュアルを読み込んだり、地図を開いて日本の最東端への行き方を調べたり、そうじゃなくても散歩コースを工夫したり筋トレをしたりして心身の健康を保つことに努めるべきだと思うが、自分は未だだらしなく動画鑑賞に溺れる生活に未練があった。まだまだ何も考えずに夢の美女に慰められていたかった。

 『ユーリ!!! on ICE』(2016)を観てみようと思ったのは、好みが合うと密かに共感していた人がSNSで触れていたのをふと思い出したからだ。その人の趣味は信頼していたものの、フィクションを見続けることに疲れ果てながらも止められないという末期的な状態で手を出して、正直何も期待していなかったのだが、見始めて直ぐに「なんだかこれは好きかも知れない」と感じると、その後は急転直下沼に落ちた。見失った夢の美女どころではない、目が覚めるようなとんでもない美女と出会ってしまったのだ。

 『ユーリ』はフィギュアスケートの物語のはずなのだが、そこに描かれているのが何なのか、自分は正直今でも全然分からない。あまりに分からなくて、少しでも理解したいとブログ的な文章を数百年ぶりぐらいに書いてみたくらいだ。いつか熱は冷めると思って公開するつもりもなかったのだが、出会って一年以上経っても毎日『ユーリ』のことを考え続けているし、未だにコロナ禍の出口は見えず、明日の自分がどうなるかもよく分からない。いつまでできるか分からないが、少し見直しながらネットに放流してみてもいいかと思い始めている。勝生勇利がテレビシリーズのヴィクトル・ニキフォロフと同じ年齢になり、世界選手権で5連覇したはずの今年、劇場版が公開されることを願いながら。

 

 

 『真昼のプリニウス』の「シェヘラザード」だが、門田は頼子に複雑怪奇な告白をした挙句きっぱりと拒絶されてしまい、その後、彼のプランがどうなったのかは分からない。きっと失敗したのだろうと当時は思っていたが、今読み返すと結構したたかな人物だし、案外どこかで完成させている気もする。奇しくも、というほどではないけれど、この小説が発表された1989年のシーズンのフリー・スケーティングに、伊藤みどりリムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』を滑っている。今見ても異次元のジャンプで完璧な演技に見えるが、世界選手権では惜しくも銀メダルだった。『ユーリ』の世界の世界王者ヴィクトル・ニキフォロフは、多分その前年、彼女が女子で初めてトリプルアクセルを成功させて世界女王となったシーズンに生まれている。昨年、勝生勇利の誕生日に公開された『 ICE ADOLESCENCE』特報に映るパリは、もしかしてその時の世界選手権のパリと通じているのではないか、などと無責任に連想する。どんなストーリーなのかは全く想像がつかないけれど、彼らはきっと今年の冬に帰ってくる。