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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

究極の文学と極東の高速機・『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』(2019)

 いきなりタイトルとは別の作品の話から始めて恐縮だが、アガサ・クリスティーオリエント急行の殺人』(1934)の結末には、ずっと納得できないままだった。事件の真相にたどり着いたエルキュール・ポワロはある決断をする。しかし、それが彼らしくない気がしてモヤモヤしてしまうのだ。何度も映像化されていて機会があればつい観てしまうが、観る度に釈然としない思いが残る。この作品に関しては、もう割り切って豪華な鉄道旅行の雰囲気だけ楽しめばいいのだろうかとさえ考えていた。

 それが大変な傲慢だと気づかされたのは、ケネス・ブラナーが監督兼主演を務めた『オリエント急行殺人事件』(2017)を観た時だ。大胆な翻案などない原作に忠実な映画であるはずなのに、ポワロがどうしてあの決断をしたのかが、初めて深く腑に落ちた。彼の決断は情けでも温情でもなく、それ自体が作品の肝であったということが、やっと自分にも見えたのだ。途中まで「エキセントリックさの足りないポワロだな」などと思いながら観ていたのだが、とんでもなかった。名優おそるべしである。

 『9人の翻訳家 囚われたベストセラー(Les traducteurs)』(2019)は、ある世界的ベストセラー小説の完結編を翻訳する為に、9人の翻訳家が郊外の豪邸に集められるところから始まる。原稿の流出を防ぐため、作業が終わるまで彼らは地下に軟禁状態にされる。翻訳家なんて如何にも癖が強そうな職業の人たち(ただの偏見だが)が強制されて共同生活を送るなんて、それだけでも色々面白そうだ。

 日本で公開されたのが丁度コロナウィルスの感染拡大が問題になり始めた頃で、映画館でよく風邪をひく自分は観に行くのを諦めていたのだが、気がつけばNetflixで配信されていた。ミステリーと銘打ちながらも翻訳家たちの群像劇みたいな話だろうと勝手に想像していたのだが、もっとがっつりサスペンス色の強い作品である。後半、とある人物が回想の中で「『オリエント急行殺人事件』の犯人は誰か」と問われる場面がある。ケネス・ブラナーのポワロと出会う前ならば、間抜けな自分にこのシーンの重みは永遠に分からなかっただろう。『オリエント急行殺人事件』の犯人は誰なのか。いくらネタバレサイトを見ても答えには辿り着けない問いである。

 


 

 

 誰もが続きを知りたがっている世界的なベストセラー小説の続編があって、世界同時に発売するために翻訳家たちが集められる、という状況はダン・ブラウンの『インフェルノ』(2013)刊行時のエピソードがヒントになっているそうだ。この映画においては覆面作家オスカル・ブラックのフランス語テキスト『デダリュス』完結編を訳す為に、英語、デンマーク語、イタリア語、ドイツ語、ポルトガル語ギリシャ語、ロシア語、中国語、スペイン語を担当する9人が集うという設定だ。一つの共通言語(この場合はフランス語)があって、それぞれ担当言語以外にも理解できる言葉はあるが、誰に何が分かるかはお互いはっきり知らない(社長はデンマーク語が読めるがスペイン語はわからないとか、ロシア語担当は中国語も喋れるとか)。中国語担当はパリに20年住んでいて、中身はほとんどフランス人である、といった見た目とアイデンティティとのギャップも存在する。本作ではそこまで生かされていなかった気もするが、ミステリの舞台として様々な可能性が考えられる設定だ。

 契約期間は2ヶ月間で、外部との連絡手段は一切取り上げられ、コワモテのシークレットサービスに監視されながら、翻訳者たちは1日20ページずつ翻訳作業に従事する。しかしロシアの富豪が提供したという地下シェルターでの生活は至れり尽くせりで、そんなに悪い待遇でもなさそうに思えてしまう。『デダリュス』を軸にした共同生活を通して、育ってきた環境も個性もバラバラな彼らが少しずつお互いの理解を深めていく話なのかと思わせるのだが、海賊版を異常に恐れる社長の元に、大金を支払わなければ原稿を流出させるという脅迫メールが届き、一気にサスペンス色が強くなる。翻訳作業は厳重に管理されているのだから、疑うべきは他の関係者ではないのかと思うのだが、社長は執拗に翻訳者たちに疑いを向け、実際犯人は彼らの中にいることを示唆するメールが次々と届く。

 決定的なことには触れないつもりだが、ここからはどうしてもネタバレになる。9人の翻訳者たちのうち5人は事前に共犯関係を結んでいて、あるトリックを使って既に原稿を手に入れている(更にどんでん返しがあるけれど)。翻訳家たちがワインを傾けながらテキストの内容について語り合う場面があるのだが、そのうち5人は小説の結末を知っていて、4人はまだ結末を知らなかったことになる。会話から渦中の小説『Dedalus』がどんな内容だったのか推測してみることもできるかも知れない。デダリュスとはギリシャ語ではダイダロスクレタ島のラビュリントスを考案した人物の名であり、同時に迷宮からの脱出方法をアリアドネに教えた人でもある。

 

Dedalus

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 作中、「文学への愛」というテーマが徐々にクローズアップされてくる(例えば社長は「文学への愛を証明しろ」とアシスタントに探偵役を強いる)。翻訳家たちの『デダリュス』に対するスタンスは、のめり込みすぎていたり、逆に生活のためと割り切っていたりと様々だ。更には結末を知る者と知らない者が混在しているのだが、彼らの会話には不思議と通じ合う部分があり、知る者が知らない者の言葉に心を動かされたりする。9人の翻訳家たちは、立場は違えど「文学への愛」を共通言語として生きてきた者たちなのだ。そしてある事件をきっかけに彼らの間には事前の共犯関係を超えた結束が生まれ、愛を見失ったただ一人だけが迷宮に取り残される。

 結局、原稿は全文が流出してしまうものの、『デダリュス』完結編は後日無事に刊行されたらしい。迷宮、もとい監獄に取り残されたただ一人は、「答えはここにあるはずだ、もう何度も読み返している」とペーパーバックを振り回してみせる。答えは確かにそこにある。しかし「物語なら知っている」と言い放つ彼に、それを気づかせてくれる人は永遠に失われてしまった。

 


 

 

 翻訳家の中に日本語担当がいなかったのは気になるところだ。ダン・ブラウンの発行部数なら日本だって多いはず、とやきもきしながら観ていたのだが、途中ではたと気がついた。この映画における翻訳家たちの真の役割は翻訳ではない。彼らの意識的、無意識的な共犯関係こそがテーマなのだとしたら、日本代表にも重要な役割が与えられている。地下鉄から原稿を盗み出す際に使われていた「1分間に170枚コピーできる日本製のプリンター」である。

 主要メーカーのオフィス用複合機の最高速度が毎分80枚ほどらしいので、映画で使われていた製品は確かに世界最速クラスである。ちょっとマニアックだが、理想科学工業のスピードに特化した製品がこれにあたるようだ。正確無比な高速複写は日本代表にしか担えない役割だったかもしれず、共犯者としては無意識の極みを体現している。むしろこの機械を共犯にしたかったから、翻訳家に日本代表はいなかったのではないだろうか。

 ラストシーンは切ないが、複写機にまつわるこの小さな発見はちょっと嬉しく感じられた。同人誌文化を支えてきただろう機械を通して、日本製の「文学への愛」も、ちゃんと作中の共犯関係に加担していたのである。日本語使いとしては日本代表にも「世界は愛を求めてる」と歌わせて欲しかった気はするけれど、本作におけるオリエント・エクスプレスならぬ極東の高速機は、勇敢な乗客たちを罪から守るとても重要な役を任されていたのだ。

 

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