netenaide

筋力弱くたどたどしく何もわかってない

グラディエーターと久能整

 世界フィギュア2022が終わった。コロナ禍のイレギュラーなグランプリシリーズに始まって、オリンピックではドーピング問題、そしてウクライナ進行に伴うロシア勢の参加禁止と、あまりに激動すぎるシーズンだった。

 モンペリエ開催ということで、自由を標榜するフランス人振付師のブノワ・リショーがリンクサイドやキスクラで存在感を発揮した大会でもあった。アダム・シャオ・ヒム・ファのスターウォーズとかダニエル・グラッスルのアルマゲドンとか、これもリショーだったのかと知ったプログラムが沢山ある。しかし贔屓目かもしれないけれど、やはり坂本花織が彼の振り付けを最も自分のものにしていたように思えた。

 その坂本のショートの音楽は『グラディエーター』で、今期は鍵山優真もローリー・ニコル振り付けのフリーで『グラディエーター』を滑っている。そのことについて、女子ショート後のプレカンでは、坂本に「どのようなストーリーを伝えたいと思っているか」「ユーマの演技に関してはどう思っているか」といった質問が出た。

 2000年公開の『グラディエーター』は、失脚したローマ帝国の元将軍が剣闘士に身をやつし、自分を陥れた皇帝に復讐を果たすというマッチョな筋肉映画だ。公開時に人に誘われて観たものの、主人公の妻と息子が惨殺されるシーンは長くトラウマになっている。坂本と鍵山の今期のプログラムがそのグラディエーターだと知った時には、少し複雑な気持ちを抱いた。現代の若者がどうアプローチしたのかは確かに尋ねてみたくなる部分だ。

 「自分のテーマは自由、解放、強さ」「優真くんのはもっと重厚で、戦いをテーマにしていると思う」「同じ曲だけどテーマは違うと感じている」といったことを「これでいいのかな」と戸惑いながらも慎重に坂本は答えていた。同じ質問を鍵山にもしてみて欲しいなと(意地悪な意味ではなく)思ったけれど、男子の会見では彼が銀メダルに終わったこともあってか、そこまで突っ込んだ話題は出なかったようだ。

 

Now We Are Free

Now We Are Free

  • provided courtesy of iTunes

 

 全日本まで坂本が着用していた青ベースの衣装には、脇腹から血が滲んでいるようにも見えるグラデーションが入っていて、そう思って見ると彼女の明るい笑顔との対比に凄みがあった。グラディエーターというテーマで坂本が表現しているのは、壮絶な戦いの末に隷属から解放される女神の姿なのだろうと想像しながら見ていた。彼女は沢山の血を流しながら、輝く笑顔で舞う自由の女神だ。オリンピックからは金色の剣闘士風の衣装になったが、血染めの衣装に底抜けに明るい笑顔のインパクトにも捨て難いものがあった。

 一方の鍵山優真が何故グラディエーターだったのかというのは、シーズン最後の世界選手権までピンと来なかった所がある。オリンピックの年に父の後継者として名乗りをあげるプログラムなのだろうとは思っていた。志半ばで倒れた剣闘士の息子が蘇って、今度はリンクサイドの父と共に世界と戦う物語だ。映画では殺されてしまったマキシマスの息子が実は生きていたのだ。喜ばしいではないか。しかし肝心の彼はなぜ戦うのかという部分が、トラウマ映画に対する先入観も邪魔してか、自分にはずっと伝わって来なかった。

 鍵山のグラディエーターは、グラディエーター・ラプソディというタイトルのピアノアレンジから始まる。これが狂詩曲という名のレクイエムなのだという事が、今回初めて理解出来たような気がした。鍵山くんが変わったのか、自分の見る目が変わったのかとオリンピックの演技を見返してみたけれど、やはり世界選手権までの間に見せ方に対する意識の変化とか、精神的な成長はあったのではないだろうか。氷上に散っていった過去のグラディエーターたちに祈りを捧げ、そこから自分の戦いへと歩み出す18歳、みたいなストーリーをやっと受信できた。しかし彼は優し過ぎて、今季血なまぐさい剣闘士にはなり切れなかったようにも勝手に感じている。

 

Gladiator Rhapsody (From

Gladiator Rhapsody (From "Gladiator")

  • ラン・ラン
  • クラシック・クロスオーバー
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 ここからはフィギュアスケートとは関係ない虎と馬の話だ。月9ドラマの『ミステリと言う勿れ』を興味深く観ていた。推理ドラマのようでもあり、ファンタジーのようでもあり、意味ありげな登場人物だけがどんどん増えていって、これでちゃんと収束するのだろうかと悩んでいたら突然ふっつりと終わった。

 主人公の久能整(くのうととのう)は、関係者の苦悩を整えることで不可解な事件を次々と解決していく名探偵・・・とばかりも言えないだろう。彼のこだわりは意外な人物の意外な心象に光をあてる。それが事件に秘められた真相を暴くように見えて、しかし結局また次のミステリーの扉を開くだけだったりする。彼の言葉に救われる人もいるけれど、殺人犯に対してもフラットで、善意も悪意も持ち合わせていないだけなのかも知れない。

 ここからはネタバレになってしまうが、そんな飄々とした彼が一人だけ特別厳しかったように思えたのが1話の犯人の藪警部補に対してだった。罪を着せられそうになったのだから当然とも言えるが、妻子を殺された復讐という同情の余地がありそうな動機を持つ藪に対して、久能整の論駁は容赦なかった。

 仕事人間で「刑事の鑑」と呼ばれていた藪は、自分の妻子がひき逃げの被害にあった時も、病院に駆けつけるより刑事の仕事を優先した。ひき逃げ犯は捕まらなかったが、薮は時間をかけて独自に犯人を調べ上げ、たまたま部屋の鍵を得た整に罪を被せる工作をした上で、復讐を実行する。トリックを暴かれた藪は「妻と息子も喜んでくれる筈だ」と言い残して連行されようとするが、整は「復讐は楽しかったですか?」と呼び止める。

僕が子供ならこう思う。「お父さん なんだか楽しそうだね あんなに忙しい 忙しいって言っていたのに

お父さんが忙しいって言っていたのは 僕らに会いたくなかったからで 僕たちが死んだら もう忙しくなくなったんだね」

 そう言われて逆上する藪に追い打ちをかけるように、そもそも復讐のために彼が手にかけた人物はひき逃げ犯ではなかったのではないか、犯人に脅されて車を使われていた被害者だったのではないかという残酷な推理まで突きつけるのだ。

 

カメレオン

カメレオン

  • provided courtesy of iTunes

 

 男の物語は妻子を殺されて始まる。それは22年前に『グラディエーター』を観ながらずっと考えていたことだ。将軍マキシマスも、妻と息子が待つ故郷に帰りたいと言いながら、ずっと戦いに明け暮れていた。失脚してやっと戻った彼が目にしたのは、皇帝の名で吊るされた妻子のなきがらだ。そこから彼の剣闘士としての復讐劇は始まる。しかしおんなこどもの側としては、そもそもが惨殺された時点で全てが終わっている。そこからどんなにお父さんは仕事返上で復讐を頑張ったと言われようが、もうどうでもいいことだ。だって死んでいるんだもの。

 一番トラウマになったのは、一緒に映画に行った人が、妻子の死体を見つけるシーンは涼しく観ていたのに、「お前の妻と息子は辱めを受けながら情けなく死んで行った」と皇帝から冒涜されるシーンでは涙を流していたことだ。男はここで気持ちよく泣くのか、というのはゾッとする発見だった。何度も言うが、こちらはもうとっくに死んでいるのだ。悲劇に酔うために妄想の中で繰り返し犯すのは止めてよ。

 「お前に何がわかる」と食ってかかる藪に「僕は今こどもの立場から言っています」と整は答える。『ミステリと言う勿れ』の第1話が妻子を失った刑事の話で、それを久能整がひっくり返してみせる話だったのは、おんなこどもが殺されて始まる男の英雄譚を、こどもの立場からきっぱり拒絶するという決意表明だったのではないだろうか。藪の推理が間違っていて、無実の犠牲者を増やしただけだったという救いのなさは、男を英雄にするために殺され続けてきた存在にとっては逆に希望でもある。英雄の皮を被った暴君に命を捧げる必要はもうないのだから。

 10話で自分は千夜子を親の虐待から守るために生まれた人格だと明かしたライカに、整は自分の胸の傷を見せた。どうもこの物語では、一見とぼけた探偵役の久能整自身が歪んだ親子関係から深刻なダメージを受けていて、そこからなんとか恢復しようと迷宮を彷徨い続けているらしい事が、回を追うごとに徐々に浮かび上がってきた。

 妻子を殺し続ける男の物語からサバイブした父の息子は、バラバラになった心を繋ぎ合わせてこれからどう生きていくのか。ドラマは続編がありそうな含みで終わった。原作に手を出そうかどうか、絶賛迷い中だ。