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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(2019)・夏は来るのに

 セレーナ・ゴメスはとても可愛いと思う。彼女がニューヨーカーの役を演じるというので、どんなこなれた姿が見られるのだろうと公開を楽しみにしていた映画だ。共演者がティモシー・シャラメエル・ファニングだというのも新鮮で面白そうだと思っていた。エル・ファニングは自分にとっては『マレフィセント』のオーロラ姫だったイメージが強い。透き通る金髪にバラ色の頰をした輝ける妖精の女王。監督ウディ・アレンの好みとはちょっと違う気がするのが、どう転ぶのかまた興味深かった。

 当時、アレンの新作の噂とほぼ同時進行で、オセロが次々とひっくり返っていくみたいに、今まで明らかになってこなかった性被害を訴えるMeeToo運動が盛り上がって、映画界の大物たちが続々と告発される事態が起こっていた。初期のターゲットだったワインスタインの話などは本当に酷くて、彼は今も収監されているはずだがもう出てこられなくても仕方ない。

 ハリウッドの大騒ぎも老監督にとっては対岸の火事なのだろうぐらいに思っていたのだが、アレンとMeeToo運動との間には捻れた太い因縁があった。ムーブメントのきっかけとなった取材で、アレンとミア・ファローの実子(だったはずが今ではシナトラの息子かもしれないとも言われている)ローナン・ファローはピューリッァ賞を受賞した。その彼の再告発によって、当時は無罪判決を受けた30年前のアレンによる養女虐待疑惑が再び注目を集めることになったのだ。本作の主要キャストたちはこぞって「出演を後悔している」と表明してギャラを人権団体に寄付するし、配給元は契約を破棄するし、あれよあれよという間にアレンとこの映画は、業界からほぼ見放されたような状況になった。日本ではコロナ禍もあってか館数を絞ってひっそりと公開されたような覚えがある。

 ただ楽しく観たかったのに、間違いなく複雑な気持ちになるだろう映画をわざわざ観に行くような時期でもなく、そんなこんなで鑑賞は諦めたままだった。Netflixで配信されるようになってから更に寝かせて数ヶ月。最近になってやっと封印を解いてみる気になった。ウディ・アレンのことをどう考えたらいいかなんて分からない。ただ宿題は片付けて先に進もうかという気分である。

 

 

 あらすじ自体はシンプルだ。大学生カップルがマンハッタンですれ違いの週末を過ごした後に、別々の人生を選択する。要約すればただそれだけなのだけれど、ティモシー・シャラメ演じる主人公の名前が「ギャツビー」という時点で、もうどこかが屈折した先制パンチだ。このギャツビーは郊外の大学生活には少々うんでいるものの、彼女のアシュレーとは将来結婚したいと思っているらしい。一方、エル・ファニングが演じるアシュレーは、学生新聞の記者としてローランド・ポラードなるロマン・ポランスキーとローナン・ファローを掛け合わせたような名の映画監督(まさしく『君の名前で僕を呼んで』いるのだろう)にインタビューすることになって舞い上がっている。アシュレーは「21歳だけど10代とよく疑われる」何かを無防備に振り撒きながら、映画界で生き惑うおじさんたちの中に飛び込んでいく。珍しく童顔の俳優たちがキャスティングされた理由の一端はここにあるのかと思い至る。宣伝文句の「ほろ苦いロマンチック・コメディー」どころか、口当たりよく偽装した猛毒といった趣だ。

 アシュレーにマンハッタンを案内するのを楽しみにしていたのに、彼女は監督に気に入られてなかなか戻ってこない。時間を潰すことになったギャツビーは、友人の映画撮影に巻き込まれて、元カノの妹、チャンと再会する。彼女がアジア系を連想させる名前なのも意図的かも知れない。演じているのはホリー・ゴライトリー風のヘアメイクをしたセレーナ・ゴメスだけど。そしてアレンによく似た学生監督の指示で、ギャツビーはチャンと即興のキスシーンを演じる羽目になり、それも彼女の提案でなぜか本当のキスを強要される。シャラメとセレーナだからロマンチックに見えるけれど、配役が違えば犯罪扱いになるという皮肉もあるだろう。そしてニューヨークに雨が降り始める。

 一方のアシュレーは、試写中に自信をなくして出て行ったポラードを探しに、今度は脚本家のテッドと一緒に行動することになるのだが、彼がまたウディ・アレンにそっくりだ。演じていたのがジュード・ロウだと気づいてまたびっくり。そしてポラードを追っていたはずがテッドの妻の浮気現場に遭遇してしまい、車の中で取り乱す彼に付き合う羽目になる。このシーンも逆に妻の側から見たら、夫が若い娘と浮気しているようにしか見えないかも知れない。夫妻のゴタゴタから解放されたアシュレーは、一人でスタジオにたどり着くものの、そこに居たのはポラードではなく色男俳優のフランシスコ・ヴェガで、今度は彼の同伴者として謎のパーティについて行く。

 アシュレーは映画界の男たちとはまともに話が噛み合っていない様子で、そこがポラードの元妻の「噛み合わせが悪い」という唐突な特徴とも通じているのだろう。危なっかしく見えながらも彼女なりに常に取材しようとしているのだが(そして彼女の興味の根底にはギャツビーの存在があるようなのだが)男たちはろくにインタビューさせてくれずに逆に彼女の個人的なことばかり知りたがる。そしてパーティーで再会したポラードにはミューズとして一緒にフランスに来て欲しいと頼まれ、テッドには恋をしたと告白される。最終的には色男ヴェガにお持ち帰りされるのだが、そこにヴェガの彼女がサプライズ帰宅して、下着にコートという格好で雨のニューヨークに放りだされてしまう。

 映画の前半、監督にどんな質問をしたらいいか相談されて「愛について影響を受けた人物はルージュモンかオルテガか」とギャツビーがアドバイスする場面がある。「どうして物知りなの?」とアシュレーは尋ねる。まるで彼女が無知みたいだけど、ルージュモンもオルテガも20世紀前半に流行った思想家だ。ギャツビーの中には80代の教養を持つおじいさんがいて、そのことをあまり隠す気がないのだとも取れる。アシュレーが映画界で大冒険している間、なり行きでチャンの自宅(五番街の豪邸だ)に上がり込んだギャツビーは、ピアノを見つけて弾き語る。途方にくれた様子でピアノに向かうティモシー・シャラメはなかなか放っておけない。彼の歌声にチャンの心は揺さぶられる。中身は多分もう80年は生きている海千山千の男だし、歌っているのはシナトラの曲という毒っぷりなのだけれど。

 

Everything Happens to Me

Everything Happens to Me

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 とうのギャツビーは自分の運命の相手に気づいているのかいないのか、「何もなかった」というアシュレーの弁明を受け入れて翌日は一緒にセントラルパークの馬車に乗り、古いジャズの一節を口ずさむ。この瞬間まで彼はアシュレーが自分の運命だと疑っていなかったかのようだ。しかし「知ってる!シェイクスピアね」と彼女が答えた瞬間、彼はとうとう彼女を諦めて馬車を降りる。なぜ彼女はシナトラもカバーしているナンバーをシェイクスピアだと言ったのか。ただの頓珍漢な人物だからか、ワインスタインの出世作のタイトルでも連想させたかったのか、それとも妖精王夫妻の養子をめぐる取り違え喜劇のことを予言したのか。どこまで追っても噛み合わない運命の彼女と一緒に森の中の大学へ戻ることはやめて、彼は霧のニューヨークに留まることにする。そこが自分の場所だから。疑惑の中で映画を作り続けるという決意表明でもあるだろう。そして夢として語り合った待ち合わせ場所にチャンは現れて、「運命だから来たわ」と告げるのだ。

 最後に雨の中で抱き合う二人の姿はとてもお似合いで幸せそうだ。しかし事情を知ってからこの映画を観る者は、コメディーとして笑いとばすには重すぎる疑惑を永遠に振り払えない。ピクシーカットで鳴らしたミア・ファローは、パックさながらに養子も記憶も取り違えているというのがアレンのメッセージなのだろうが、妖精の女王の金髪の息子は、かつての父が家族の歴史を喜劇に帰すことは許さずに、父王の(社会的な)死を望む。黒でも白でもグレーでも、それだけのことが元家族の間にはあったのだろう。それでもこの監督はしぶとく映画を撮り続けるのだろうけれど。折りしも今週からポランスキーの新作が公開されるらしく、広告には名だたるおじさんたちのレビューが並んでいたりする。つくづく変な世界に生きている。