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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

自分を決めるボーダーラインについて・『金メダルの価値〜ハーディングとケリガン』(2013)

 誰がどうしてそうなったのか。フィギュアスケートのオリンピック代表の座を巡って1994年に起こったナンシー・ケリガン殴打事件は、トーニャ・ハーディングの司法取引で幕を下ろしたこともあって、疑問がいつまでもついて回る。2017年の映画『I,Tonya』は、ハーディングの側から、決定的な事実には触れないままに、様々な要因が重なって彼女が追い詰められていく様子が描かれていた。こちらはスポーツ専門チャンネルESPNが2013年に作成したドキュメンタリー"The Price of Gold"で、6月からディズニープラスで配信が始まったものを観た。ケリガン本人の肉声はないものの、ハーディングとケリガン双方の側から取材して、事件の真相に迫っている。

 そうなんだと思ったのは、ハーディングの出自が貧しかったのは知られているけれど、ケリガンの家庭も労働者階級出身だったこと。ただ、毒親ぶりが目立つハーディングの母親に対して、ケリガンの両親は「もう少しまともだった」。ハーディングもケリガンも元々は「お転婆」だったけれど、ケリガンはそれを封印して、氷上のプリンセスに求められる中産階級的な優雅さを身につけ始める。それが功を奏して彼女には大企業のスポンサーがついてますますイメージを高めて行った。ケリガンは「運動神経の良いお転婆」から「優雅なアイスプリンセス」へ世間とスケート連盟が求める選手像へと自分を作り変えて成功したのだ。

 ではハーディングがジャンプ以外は見所のない選手だったのかといえばそうではなくて、全盛期の彼女には確かに観客を熱狂させる魅力と才能があった。改めて当時の映像を見ても、こんなに綺麗で輝いていたんだと感嘆する。カメラの前でのパフォーマンスだって堂々としたものだ。この実力でもう少しスケ連の言うことを聞いていれば、もっと優遇されただろうと思ってしまうし、彼女が度々口にするお金だってもっと稼げていただろう。でも音楽にしろ衣装にしろ、彼女は頑として自分を変えなかった。どうしても譲れないラインというものが人には様々あるけれども、ハーディングにとってそれは「氷の上で自分を偽ること」だったのかなと思う。彼女は自分を変えずに世界を変えることを選んだ。後に引き起こされた事件の後味の悪さを考えたら、英雄視出来ることではないにしても。

 幼少時の彼女のリンクメイトが、ハーディングの母親の虐待を通報すべきだとコーチに進言するが、コーチはそれを拒んだと証言する。ハーディングの才能は、皮肉にも彼女を苦しめる母親の存在とセットであったことを、コーチは見抜いていたのかも知れない。その母から逃れるためにハーディングは若くして結婚する。その頃から最大の武器であったトリプルアクセルがなかなか跳べなくなり、愛されるヒロインとしてナンシー・ケリガンが頭角を現してくる。ケリガンと共にアルベールビルオリンピックに出場したものの、銅メダルを獲得したケリガンに対して、3Aを失敗したハーディングは4位に終わった。ドキュメンタリーの冒頭に、襲われたケリガンがWhy!?と泣き叫ぶ声が入っているのだが、それから2年後、本当にどうして世にも奇妙な襲撃事件が起こってしまったのか。

 オリンピックの制度が変わり、リレハンメルオリンピックアルベールビルの2年後に開催されることになった。その選考会を兼ねたアメリカナショナルの直前、練習中のケリガンが暴漢に襲われて負傷する事件が起きた。ハーディングはケリガンが欠場したその大会で優勝して代表入りを決める。しかしケリガンも特例で代表に選出されてリハビリに努めることになった。そして徐々に世間の疑惑の目はハーディングに向けられるようになる。犯行計画が杜撰だったこともあって、程なくしてハーディングの元夫とその友人たちが逮捕された。彼らはハーディング本人も最初から計画に関わっていたと証言し始め、直筆のメモという信ぴょう性の高い証拠も発見された。しかし彼女は自分は全く知らなかったことだと主張し続け、訴訟までちらつかせて代表の座から降りることを拒んだ。

 オリンピックでゴールドさえ獲得すれば、スポンサーもついて裕福に暮らせるというのが、直接の動機として映画でもこのドキュメンタリーでも示されている。でも3Aはなかなか跳べなくなっていたのに、ケリガンさえいなければ金メダルが獲れると彼女とその周囲は本当に信じていたのだろうか。実行犯たちにとっては確かに、転がり込んでくるはずの金銭が動機だったのだろう。でも出場しさえすれば金メダルだなんてありえないことは本人にはわかっていた筈だ。そして本当に稼ぐことだけが目的だったなら、もうとっくにみんなに愛される上品な選手を演じて、企業の支援を取り付けることも出来ていたのではないだろうか。カメラの前であれだけ自分を作れる彼女なら、不可能ではなかったと思ってしまうのだ。彼女のモチベーションはむしろ、氷の上で今一度ありのままの自分を表現して喝采を受けることだったのではないかと感じる。それが「オリンピックで3Aを成功させる」「ゴールドを獲得して裕福になる」「ケリガンさえいなければ」というねじれた呪縛に姿を変えて彼女とその周辺に取り付いてしまったのではないだろうか。

 一方で、この一連のゴタゴタ劇はナンシー・ケリガンを更に強くした。雑音を排して治療に集中し、凛としてリンクに戻ってきた彼女は、明らかにハーディングより格上の風格を身につけていた。注目される事を楽しんでいるようにも見えたハーディングの根拠のない自信は、磨かれて戻ってきたケリガンを前にして潰えてしまったのかも知れない。結果としてハーディングの二度目のオリンピックは8位入賞にとどまった。

 ただ、完全復活を遂げて誰もが優勝を疑わなかったケリガンだったが、金メダルを獲得することは叶わなかった。彼女のコーチ陣は陰謀があったと主張するが、金メダルは可憐なウクライナ人選手オクサナ・バイウルに与えられ、ケリガンはまさかのシルバーメダリストとなった。一連のあまりに酷い場外ドラマに対して、他国のスケート関係者たちがノーを示したのかも知れない。バイウルへの態度もあれこれ言われてしまうし、何もなければ金メダルだったかも知れないケリガンにとっては本当に災難なことだった。そして彼女の名はハーディングの名と常にペアでフィギュアスケート史に刻まれてしまう事になる。

 オリンピック後、ハーディングは司法取引に応じて、事件に自分の関係者が関わっていたことを「事後に」知って隠していた事を認めた。しかし計画段階から関わっていたのではないかという疑惑については立件が見送られた。彼女は部分的に罪を認め、スケート界からは追放される事になったけれど、自分は何も知らなかったのだと言い続けられる権利は手に入れたのだとも言える。その事に関して、元リンクメイトは「やっていないと思いたい。でもやっていたと思う」という苦い心証をもらす。そして「今の彼女はただ生きているだけ」と付け加える。

 ハーディングは氷から降りる代償として、有罪かもしれず無罪かもしれないという永遠にグレーな自分を手に入れた。その姿を「ただ生きているだけ」と旧友は形容するのだろう。「どうして」という永遠にループする問いに対しては、「お金の為ではなかった」とひとこと語ってくれたらと思ってしまう。初めて大会でトリプルアクセルを成功させた時の喝采を再び求めてしまったのだと認めてさえくれたなら、彼女のことを愛せるし納得もできる。でも彼女は「自分のお陰でフィギュアは注目されてスケーターたちは稼げるようになった」のだと、「自分は締め出されているけれど」と、大きな青い瞳を見開いてお金の事ばかり言い募る。栄光を求める心が引き起こした事件だったとは、どうしても口にしてはくれないのだ。それを認めることは、氷の上で別の人間のふりをする事が出来なかったと同様に、彼女にとっては法を犯すよりもずっと難しいことなのかも知れない。

 「今は自分のことを愛しているし、夫のことも子供のことも愛している」と彼女は語る。それはきっと本当のことなのだと信じたい。案外本当にそうなのだろうとも思う。並の金メダリストよりもずっと彼女は語られ続けてきた。その人生の物語は今や高視聴率をもたらすコンテンツとなり、彼女は決定的な言葉は避けながら嬉々としてカメラの前で語り続ける。

 それぞれの人間を規定する見えない強固なボーダーラインと、ハーディングが氷の上で表現したかったものについて想像する。今だったら彼女の際立った個性も、もっと受け入れられていたのだろうか。そして、飛躍しすぎなことはわかっているけれど、その見えないボーダーラインというのは、ある選手の、氷の上で回転を稼ぐジャンプは跳べない、跳ばないという心意気だったり、ある選手の「僕は彼にはなれない」という迷走の果ての結論だったりにも通じるところはあるかも知れないと思う。どんなにあれこれ言われようとも、人には外からは見えない決して崩せないラインというものが存在するのだ。それは、その人にとってはどうしても犯せない倫理のようなものでさえあって、ハーディングはそうは認めないけれど、単なる損得勘定よりもずっと強く人の運命を支配しているように思える。

 

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