『Mr. Holmes(Mr.ホームズ 名探偵最後の事件)』(2015)
監督 ビル・コンドン
脚本 ジェフリー・ハッチャー
原作 ミッチ・カリン『A Slight Trick of the Mind(ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件)』(2005)
音楽 カーター・バーウェル
女嫌いで有名なシャーロック・ホームズだが、実は家主のハドソン夫人こそが彼の妻だという説があるらしい。他者への懐疑とは切っても切れないホームズの知性は、彼にとって絶対的な他者である女性とは相容れないものなのかも知れない。そんな彼がタッグを組める相棒は妻を亡くした状態のワトソンだけで、二人は「女のいない男」という絆で繋がっている。その際彼らに一番近い女性は、家主兼家政婦というホームズの知性にとっても疑いの余地のない役割だけを担うハドソン夫人として描かれる。妻を家政婦扱いとは酷い話だが、仮にそうだとすると映像化された様々なハドソン夫人たちは夫としてのホームズの有り様を表しているようにも見えて面白い。ロバート・ダウニー・Jr版『シャーロック・ホームズ』に出てくるハドソン夫人は美人だけれど疲れて不幸そうなのがとても気になる。BBCドラマのハドソン夫人は「夫を死刑にしてくれた」シャーロックに感謝してご機嫌に暮らしている。最も意表をつかれるのはNYを舞台にした『エレメンタリー』のハドソン夫人だ。彼女を人生の伴侶とするのはとにかく相当な人物だろう。
こちらの映画のホームズは女性への不信をとうとう克服できなかったのか、ワトソンへの想いを抱き続けてか、独り身を貫き続けて93歳の老人となっている。既にワトソンもハドソン夫人も他界していて、趣味の養蜂をしながらの田舎暮らしだ。身の回りの世話は通いの家政婦のマンロー夫人に頼んでいるが、彼女は老ホームズに対して何か複雑な思いがあるらしい。好奇心旺盛な息子が戦死した夫との思い出を忘れてホームズに親しんでいくことに危惧があるようでもある。
老ホームズは自分が引退するきっかけとなった最後の事件を(ワトソン筆ではなく)己の手で書き直す必要を感じているが、肝心の記憶が心許ない。その為に原爆投下後の日本まで取りに行った(記憶を回復させるという)ヒレザンショウというハーブを摂取している。彼が訪れる日本はまるで死後の世界のように描かれていて、真田広之とその母が老ホームズを出迎える。二人は黄泉の国に置き去りにされた母子のようでもあるがホームズは彼らのことも思い出せない。彼が真田広之から持たされる「鰭山椒」は、作中では健康にいいはずのロイヤルゼリーの反物質的な位置付けのものらしく、ということは毒物のメタファーでもあるのかも知れない。老シャーロックには自分の命と引き換えにしてでも思い出したい何かがあるのだ。
断片的に彼が取り戻していく記憶は、アルモニカという楽器に取り憑かれた妻の正気を疑う夫からの依頼で、事件としては平凡なものだ。ホームズは夫を殺そうとしているように見える夫人の真意を正しく言い当てるが、最後に判断を誤って彼女の命を失ってしまう。ホームズを女性から遠ざけている彼の「知性」によって理解されることは、夫から理解されることのなかった夫人にとっては初めての救いだった。しかしホームズは彼女の手を取る事が出来ずに「愛する夫の元へ戻りなさい」と諭し、彼女は命を絶つ。
女を愛せないホームズに理解されることが救いであった女とはどういう人物なのか。夫から理解されることのない彼女は夫ではなくホームズの側で生きたいと願う。自分を愛する夫の傍では生きていられない女性、というのは他ならぬワトソンの妻であったような気もする。彼女がホームズの側にいたいというのは、彼女自身は夫を愛せない存在だったとも取れるしワトソンを妻の元へ返して欲しいという意味だったのだとも思える。そしてホームズが理解できる形で彼の側にいる女性といえばハドソン夫人である。彼女はホームズとワトソンがいないことにしていた彼らの伴侶の影だったのかも知れない。ホームズが封印していたのは彼が愛し、愛さなかった人物についてであり、自分が愛され、愛されなかったという記憶についてだったのではないだろうか。
ハドソン夫人がホームズの側で生きることを願ったかつての彼の伴侶だったのだとして、ホームズが彼女についての記憶をどうしても取り戻せないのだとしたら、現在彼の側にいるマンロー夫人の真の姿もまたホームズが思い出せない人物なのかも知れない。マンロー夫人とその息子はワトソンとハドソン夫人が彼の人生から去った後にホームズの元に残された存在だ。そしてホームズが夫人の白い目にもかかわらず記憶を取り戻そうとあがくのは、彼らが再び自分の元を去ろうとしていることを相変わらずの知性で見抜いてしまったからだろう。
夫人の正体がかつて「愛さなくていいから彼の側にいたい」と願った人物だったのだとしたら、記憶を取り戻したいというホームズの真意は彼らをもう失いたくはないということではないだろうか。彼はこの映画の中でとうとう愛する人の手を取る事が出来たのかも知れないし、もしくはとうとう「愛」に支配されずに他者と生きることの出来る地平にたどり着いたのかも知れないなどと思った。