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筋力弱くたどたどしく何もわかってない

湾曲した鏡

 なぜ、よりによってハンス王子なのか。一度気付いてしまうとそうとしか思えなくなる程、ヴィクトル・ニキフォロフの言動は『アナ雪』のハンスと被って見える。好きな食べ物を知りたがり、扉を開けさせたがり、決め台詞は「そういうの大好きだよ!」だ。自分たちは似ていて、問題の解決策はキスだと思っている。そう思って見れば、彼の『離れずにそばにいて』の衣装は、ハンスの気取った服に似せているようにも思える。

 あまり中の人の言うことを鵜呑みにしすぎない方がいいのかなと思う時もあるが、監督ジェニファー・リーのインタビューによれば、ハンスとクリストフとアナの名は、原作者のハンス・クリスチャン・アンデルセンからそれぞれ取ったそうだ。そして、そんな事まで明かしてしまうんだと思ったけれど、ハンス王子は原作に出てくる「悪魔の鏡」なのだとも語っている。劇場で初めて『アナと雪の女王』を観たとき、途中までハンス王子が悪役だとは信じられなかった。前半の彼は本当に理想的なアナの伴侶候補にしか見えないのだ。彼はアナが都合よく悪魔の鏡に見出した鏡像のような男だったということだろうか。

 

とびら開けて

とびら開けて

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 アンデルセン雪の女王』(1844)の中での「悪魔の鏡」とは、「悪いトロールの中でも一番悪いやつ、悪魔」が作った鏡であり、そこに映るものは何でも拡大されたり歪んだり上下が逆になったりして見えてしまう。悪魔とトロールたちは調子に乗って、この鏡に神様と天使たちの姿を映してみようとするが、鏡は地上に落ちて砕け散ってしまった。そして、その欠片は世界中に散らばって漂い続けている。

 人によっては、小さい鏡のかけらを、心臓にうけてしまった人さえありました。そうなると、本当に恐ろしいことでした。その人の心が、氷のかたまりのようになってしまうのです。また、鏡のかけらの中には、大きいために、窓ガラスに使われたのもありました。けれども、このガラス窓から友だちを見たりすると、とんだことになりました。それから、眼鏡になったかけらもありました。

アンデルセン雪の女王山室静

 物語の発端は、この小さな欠片がカイの目から入り、心臓に刺さってしまったことだ。カイは意地悪で理屈っぽい少年となり、仲良しだった幼馴染のゲルダを邪険に扱うようになる。そして雪の女王に魅入られて氷の城へ連れ去られてしまう。

 しかし本当の変化は、鏡の欠片が目に入る前から彼の身に起こっている。ある冬の晩、カイはガラス越しに見た雪のひとひらが、氷の体を持つ美しい女の姿になって手招きするのを目撃する。悪魔の鏡はカイの家の窓にも使われていたらしい。その時は驚いて逃げ出したまま春になったものの、次の冬、彼はレンズ越しの雪の結晶の完璧な美しさに見とれて、再び雪の女王を呼び出してしまう。雪の女王とは、思春期の少年の心が生んだ、この世には存在しえない完全無欠な女の姿をした氷の魔物だったのかも知れない。彼女は温かな血の通う不完全な現実の少女とは対極の存在だ。

 


 

 

 アンデルセンの『雪の女王』が、少年に取り憑いた「完全な女なるもの」の姿をした魔物だったなら、『アナ雪』のエルサは、完璧ではない現実の女の子アナが抱いた「完璧な理想の自分」の具現化だったのかも知れない。氷の魔女エルサとは、プリンセスとして完璧でなければいけないというプレッシャーから逃れるために、幼いアナが生み出してしまった幻の姉だったのではないだろうか。この物語の本当の氷の魔女は、もしかしてアナの方なのだ。

 アナはいつか真実と向き合って幻の姉と人格を統合しなくてはならなかったのに、両親の船が沈んだ事によってその機会を失う。そして自分がエルサを作り出したことを忘れたまま、彼女に魔力と責任を押し付けて戴冠させてしまう。「もう完璧な自分を演じきれない」というエルサの苦悩は、実はアナの苦しみでもある。

 エルサという完璧な女王を作り上げて自分で自分を閉じ込めているアナは、今度は自分を孤独から救い出してくれそうな理想的な婚約者、ハンスを生み出してしまう。ハンス王子とは、それ自体では愛情も悪意も持ち合わせない、ただの鏡でしかない。アナが目を輝かせればハンスの瞳も輝き、孤独を打ち明ければ、全く同じだと共感してくれる。ハンスが「愛はない」とアナを見捨ててエルサを手に掛け、アレンデールを乗っ取ろうとするのは、自分を愛せないまま雪の幻想と戯れ続けるアナ自身の姿が投影されているだけなのかも知れない。孤独なプリンセスは、まずありのままの自分を愛してエルサと和解しなければならなかった。「完璧ではないけれどいい男」であるクリストフと出会うのは、その後であるべきなのだ。

 

愛さえあれば

愛さえあれば

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 女王エルサと王子ハンスはどちらもアナのコンプレックスが生み出した鏡像だから、『ユーリ』の中のエルサポジションにいるヴィクトルはハンスとも被って見えるのだ、という解釈は出来るかも知れない。勝生勇利の憧れを映し出す鏡であるヴィクトルには、ある時には完全無欠な氷の帝王が映り、ある時にはキラキラとした理想の王子様が映る。だとしたら結局、勇利はただ一人でウヌボレ鏡をのぞき込んでいただけなのだろうか。『ユーリ』はそんな夢オチみたいな物語なのだろうか。

 しんしんと凍てついていくアレンデールで、瀕死のアナはクリストフの胸に飛び込んで救われることよりも、剣を振り上げるハンスから身を挺してエルサを守ることを選ぶ。とうとう全身が凍りついてしまったアナにエルサが縋りつき、その瞬間、アナの胸から氷は溶けていく。「愛よ!」とエルサが悟ると、アレンデールはみるみる春の光景を取り戻し、アナはエルサに「(あなたは)出来るって言ったでしょ」と得意げに告げる。

 彼女たちが氷を溶かした愛とは、一体どんな愛だったのだろう。どんな愛でもいいではないか、自己犠牲の愛でも同性愛でも、究極的にはアナが自分を認めるための愛が成就したのだから。そうも思うけれど、ヴィクトルがまるでハンスのようである理由の一つには、ひょっとしてこの「愛」をめぐる問題、というより戦いが関わっている。

 


 

 

氷の城の接線

 「友達になれないのはわかったけど 何で写真はここで見せちゃいけないの? ミッキーマウスって丸裸で写真を撮っているの?」

 「無断でキャラクターを使えないのさ ウォルト・ディズニー・カンパニーは厳しいからね」

さくらももこコジコジ』(1995)

 立派な「メルヘン者(しゃ)」となることを期待されたメルヘンの国の住人たちの物語、『コジコジ』の中の名言は多いけれど、このハレハレ君の常識的な言葉が一番忘れられない。二十数年来この忠告は密かに肝に銘じて生きてきた。国民的キャラクターを擁するさくらももこ先生ならばキワキワまで攻めることも可能だけれど、一般人はうかつにディズニー・キャラクターには近づかない方がいい。彼らの権利関係は非常に複雑で厄介だから。


  

 2016年に放送された『ユーリ!!! on ICE』に2020年になってから夢中になり、そこに描かれている何かを知りたいと心から願ったけれど、最初は何の手がかりも思い浮かばなかった。『ユーリ』は初めて本格的にフィギュアスケートを題材にしたアニメ作品であるらしいのに、初心者向けに広く魅力を普及しようといった配慮はあまりない。登場人物のほとんどは男子シングルの選手たちで、試合もほぼグランプリシリーズだけを描いているというニッチぶりだ。それなのに一度心をつかまれるとフィギュアスケートについて嫌でも詳しくなり、やがてこれは本当にスケートの話なのか、自分が何を見せられているのか判然としなくなってくる。『ユーリ』とは一体何の話だったのか。自分にとってそれを考えるには、たとえ見当外れでも、何らかの補助線を書き足してみる必要があった。

 『ユーリ』の原案者たちが構想に2年かけたと発言していたのも今思えば大きなヒントだったが、2020年の朦朧とした頭には、読解の手掛かりがなかなか思いつかなかった。リアルなフィギュアスケート選手の動向から考えるというのは難易度が高すぎたので、それ以外の部分から何か見つけたかったけれど、それが何なのか分かりそうで分からない。「氷」をモチーフにした映画が世界的に大ヒットした年があったじゃないか、と気付くまでに数日悶々としてしまった。ウォルト・ディズニー・カンパニーには近づかないように、という有難いハレハレ君の教えが自分の中で盲点となっていたかもしれない。勝手な自主規制を彼のせいにしてはいけないが。

 『アナと雪の女王』のアメリカでの公開は2013年11月、日本では翌年3月から上映が始まっている。異例の大ヒット&ロングランが続き、挿入歌の『Let It Go』も大流行した。世界中の老若男女が気持ち良く「レリゴー」と唱えていた季節が確かにあったのだ。それは時期的に『ユーリ』のアイデアが練られ始めた頃と重なるのではないだろうか。氷の魔力に悩む女王が出奔し、何も知らぬ妹が連れ戻しに行くというストーリーは、世界王者ヴィクトル・ニキフォロフがロシアを飛び出し、弟弟子のユーリ・プリセツキーが追うという『ユーリ』のストーリーとなんだか重なりそうである。

 

レット・イット・ゴー - ありのままで

レット・イット・ゴー - ありのままで

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 『アナ雪』ブームもひと段落かといった頃、「あれは実は女性同士の恋愛を描いた話だ」という解釈を見るようになった。多分、エルサの氷の魔法が何かを象徴しているのだとすれば、それは広く個々人を縛る何かに対するアレゴリーであって、人知れず悩みを抱える者はそれが誰でもどんな悩みでも、自分とエルサを重ねて励まされていいのだろう。中の人の一人は、難病の息子とエルサを重ねたと語っている。しかし、一人の架空のプリンセスのセクシャリティに関して、「エルサは自分だ、間違いない」と特に強く確信した層と、積極的に応援する層、そしてそれを脅威と受け取る層が生まれていた。

 2015年に続編の制作が発表されると、「エルサに同性の恋人を持たせて欲しい」という話題が盛り上がり、2016年5月には「エルサにガールフレンドを」というハッシュタグが流行する。それに対抗してウルトラ保守系の署名サイトは「エルサに魅力的な王子様を」というタグでディズニーに圧力をかけることを呼びかけた。エルサ本人の意向(架空の人物だけど)は置き去りにして、彼女の性的指向やら恋人の有無やらについて大論争が巻き起こっていたのだ。

 こう状況証拠が揃うと、『ユーリ!!! on ICE』とは「エルサにガールフレンドを」というLGBTムーブメントへのアンサーソングだったのだろうと考えたくなる。リベラル派からすれば悪意を感じるハッシュタグに対して、「お望み通りプリンスを連れてきたよ、エルサも男だけど」と痛快な意趣返しをしてみせたのではないか。しかし、どうやら『ユーリ』はそんなに簡単に答えを与えてくれる物語ではない。気分良く『アナ雪』のサウンドトラックを聴いていた自分は、その歌詞にギョッとして、慌てて何度も『アナと雪の女王』を観直すことになる。大げさだが、気付いた時には鳥肌が立つほど怖かった。長谷津へやってきたばかりのヴィクトルの言動は、アナを騙すハンス王子とほぼ同じなのだ。ヴィクトルは悩めるエルサだと思っていたのに、どうして邪悪な王子の真似をしているのか。『ユーリ』では誰が誰の役を演じようとしているのか、一瞬で見失ってしまった。

 


 

真昼のプリニウスと氷上のシェヘラザード『 ICE ADOLESCENCE』特報によせて

 「それで、この計画全体というか、このシステムには何か名前は付いていないんですか?」と頼子は自分もだいぶこのプランを面白がっているなと思いながら、たずねた。

 「ぼくはもう決めています。このシステムに、あるいはこれを管理するコンピューターに、付けるべき名前は一つしかありません。つまりですね、ひたすら、かぎりなく、話が出てくる魔法の箱に名があるとしたら、ふさわしい名は一つしかない。すなわち『シェヘラザード』です」と門田は言って、いささか得意そうに二人の顔を見た。

池澤夏樹『真昼のプリニウス

 2020年の前半はひたすらNetflixを見続けていた。2019年末にはまだ対岸の火事のように扱われていたコロナ禍は、年が明けるともちろんあっという間にこの国にも上陸して、家族はそれぞれリモートワークやリモート授業に対応しなければならなくなった。自分自身の暮らしはそこまで大きく変わった訳ではないが、常に誰かと家にいる生活というのは想像以上にというか想像通りにというかストレスが大きい。どの都市の感染者が今日は何人、といったニュースも定期的に見ないわけにはいかないが、そればかりではメンタルを蝕む。何か内なる喜びを見つけないと危ないと感じて、取り敢えずは動画配信サービスにすがった。イヤホンをして携帯の画面を見つめれば擬似的にでも一人の時間を取り戻せることに随分と慰められた。

 海外ドラマの一気見から始まって、気になりながら観ていなかったドラマや映画を、この機会に浴びるように摂取した。しかし数ヶ月後、とうとう観たいと思える動画が底をついた。オススメ作品は無限に表示されるのだが、どれも同じに見えるようになってしまって、どうにも食指が伸びなくなったのだ。現実逃避の手段を失って再び精神衛生の危機である。その時にぼんやりと思ったのは、次々とおすすめ動画が出てくる動画配信サービスというのは、昔読んだ小説に出てきた「シェヘラザード」みたいだな、ということだ。あの無限にお話が出てくる魔法のシステムは、結局どうなったんだっけ。

 『真昼のプリニウス』が発表されたのはバブルの最中の1989年で、自分が読んだのはもう少し後の時期だったけれど、当時はインターネットも携帯電話もまだ一般的ではなかった。そこで語られていた「シェヘラザード」とは固定電話を想定したサービスで、気軽に聞ける短い物語を無数に吹き込んでおいて、そのダイヤルに掛けるとランダムにどれかと繋がるというシステムだ。今からすれば随分素朴で、そういった偶然性を楽しむような余興は今日ネット上にありふれている。ただ、門田(もんでん)という広告マンが語る「シェヘラザード」が今でも興味深く思えるのは、それだけではないどこか悪魔的な魅力がそこに込められていたからだ。

 門田によれば、その「シェヘラザード」が提供する物語群には一定の傾向が無い方がいい。神話のリライトからささやかな歴史のトリビア、そしてエビの養殖の実際、みたいな話までをごちゃごちゃに混ぜる。

「カテゴリーに分けられる前の、あらゆる物が渾然とある状態、学者たちによって細分される前のトータルな状態の世界を、その雑然たる印象のままに、隙間から少しだけ見せる」

「つまり・・・」と言って頼子は考える、「百科事典の原理を裏返すわけ?」

 「シェヘラザード」に電話をかける者は、無作為にバラバラにされた世界のかけらの一つとつかの間繋がる。その行為を面白いと感じて実際にダイヤルする人間がどれだけいるかが、このアイデアがビジネスとして成り立つかどうかの分かれ目となる。門田自身はいけると踏んでいて、お話の提供依頼とリサーチを兼ねて、地質学者の頼子とその弟の卓馬に「シェヘラザード」の構想を披露する。外科医をしている卓馬には、どうもこのシステムはピンときていない。「何で普通の人間が(無意味な情報を聞くために)電話をするんだ?」と尋ねる彼に「上手く説明は出来ないが、トランキライザーのようなものだ」と門田は答える。「少なくとも自分はかけると思うから他の人の意見を聞きたい」。仕事がひと段落した夜などに、ふと自分もダイヤルするかもしれない、と頼子は思う。

 無意味な話を聞くために「普通の人が電話する」魔力を生むのは、そこに吹き込まれる物語の数だ。「百では全然つまらない。千あるとちょっと面白くなる」。確かに五十から百も気の利いた小話を集めれば、ちょっとした気晴らしを提供するシステムとしては稼働できそうだが、それでは「シェヘラザード」の魅力は生じないのだろう。誰かがたまたま戯れで引き当てた無意味な物語の背後に、語られなかった千の物語が存在していること。その無駄に思える部分が「シェヘラザード」に妖しげな命を吹き込む。語られなかった千の物語の総体のようなものを想像するかどうか、そこに暴君を慰めて尽きることなくお話を語ってくれるアラビアンナイトのお姫さまの面影を見出すかどうかが、門田のプランに興味を持つ人とそうでない人との違いなのだろう。

 日々メスを握って生身の人間を切り開く卓馬には、それは無意味な情報の集積にしか思えないが、人間のスケールを超えた地殻の内側を考えることが専門の頼子には、魅力的な「何か」の横顔がおぼろげに浮かぶ。そしてバブル期の広告業界に棲息する門田には、「シェヘラザード」は自分以外の人間も必ずや魅了するはずの美女に見えていて、彼女を育てるプランに取り憑かれている。ただ、物語のサンプルを読んで「門田の好みが反映されすぎている」と頼子が感じるように、門田は「世界そのものを提供する」と言いながらも、物語の切り取り方や整え方に、こっそり自分の編集を加えている。シェヘラザードの魅力は、門田の語り口のうまさによっているところが大きい。「シェヘラザード」は門田の夢の美女なのだ。他の誰かがコピーアンドペーストで乱雑に千の物語をかき集めてみたところで、そこに美しい面影が浮かぶとは限らないのだろう。


 


 

 時は移って2020年代の動画のサブスクリプションにどれだけの「物語」が収録されているのかというと、数え方にもよるが、Netflixアマゾンプライムといったメインどころで四千本前後といったところらしい。門田は、この数を多いと言うだろうか、少ないと言うだろうか。ステイホームのはじめ、サブスクの海に浮かんで見えたシェヘラザードは確かに慰めだったが、「こういうのがお好きでしょう?」と親切におすすめされ続けた結果、どうやら自分は夢の美女を見失いかけていた。

 作家・池澤夏樹なら「大切なのは世界と自分と美女とのバランスを取ることだ」と思慮深く忠告してくれそうだし、言われなくても彼のファンなら今すぐスマホの電源を落としてセスナ機の操縦マニュアルを読み込んだり、地図を開いて日本の最東端への行き方を調べたり、そうじゃなくても散歩コースを工夫したり筋トレをしたりして心身の健康を保つことに努めるべきだと思うが、自分は未だだらしなく動画鑑賞に溺れる生活に未練があった。まだまだ何も考えずに夢の美女に慰められていたかった。

 『ユーリ!!! on ICE』(2016)を観てみようと思ったのは、好みが合うと密かに共感していた人がSNSで触れていたのをふと思い出したからだ。その人の趣味は信頼していたものの、フィクションを見続けることに疲れ果てながらも止められないという末期的な状態で手を出して、正直何も期待していなかったのだが、見始めて直ぐに「なんだかこれは好きかも知れない」と感じると、その後は急転直下沼に落ちた。見失った夢の美女どころではない、目が覚めるようなとんでもない美女と出会ってしまったのだ。

 『ユーリ』はフィギュアスケートの物語のはずなのだが、そこに描かれているのが何なのか、自分は正直今でも全然分からない。あまりに分からなくて、少しでも理解したいとブログ的な文章を数百年ぶりぐらいに書いてみたくらいだ。いつか熱は冷めると思って公開するつもりもなかったのだが、出会って一年以上経っても毎日『ユーリ』のことを考え続けているし、未だにコロナ禍の出口は見えず、明日の自分がどうなるかもよく分からない。いつまでできるか分からないが、少し見直しながらネットに放流してみてもいいかと思い始めている。勝生勇利がテレビシリーズのヴィクトル・ニキフォロフと同じ年齢になり、世界選手権で5連覇したはずの今年、劇場版が公開されることを願いながら。

 

 

 『真昼のプリニウス』の「シェヘラザード」だが、門田は頼子に複雑怪奇な告白をした挙句きっぱりと拒絶されてしまい、その後、彼のプランがどうなったのかは分からない。きっと失敗したのだろうと当時は思っていたが、今読み返すと結構したたかな人物だし、案外どこかで完成させている気もする。奇しくも、というほどではないけれど、この小説が発表された1989年のシーズンのフリー・スケーティングに、伊藤みどりリムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』を滑っている。今見ても異次元のジャンプで完璧な演技に見えるが、世界選手権では惜しくも銀メダルだった。『ユーリ』の世界の世界王者ヴィクトル・ニキフォロフは、多分その前年、彼女が女子で初めてトリプルアクセルを成功させて世界女王となったシーズンに生まれている。昨年、勝生勇利の誕生日に公開された『 ICE ADOLESCENCE』特報に映るパリは、もしかしてその時の世界選手権のパリと通じているのではないか、などと無責任に連想する。どんなストーリーなのかは全く想像がつかないけれど、彼らはきっと今年の冬に帰ってくる。